odd_hatchの読書ノート

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フロレンス・ナイチンゲール「看護覚え書」(現代社)-1 伝統的で科学的でない医療に公衆衛生と統計を取り入れよう。看護士の社会的評価を高めよう。

 フロレンス・ナイチンゲール1820年生まれ。サイモン・シン「代替医療解剖」(新潮文庫)に詳しい生涯が書いてあるので、それを参考にすると、ジェントリの裕福な家庭の生まれ。クリミア戦争に看護婦として従軍。それまでの軍隊の看護所の常識を変える運用を実行し、野戦病院での致死率を劇的に改善する。彼女の活動はイギリス本国につたわり、支援する基金が作られもする。帰国後は看護学校を作って、看護師の要請に努めたり、公衆衛生の改善を政府に訴えたりする。その超人的な活動で人々に知られるようになった。必ずしも「白衣の天使」のような献身的で慎ましい母性の持ち主というわけではなく、政府や軍の要人らと議論で渡り合う積極的で強い個性の持ち主であったらしい。加えて公衆衛生と統計を医療や看護、政策に取り入れることを主張した。

 当時の医療その他をみるとこんな感じ。
・医療に関しては伝統的で科学的でない方法が主流。瀉血や下剤で体の毒素を取り除くのがよいとされた。戦場の外傷で重傷なものは容赦なく切断する。
・衛生観念はほとんどなく、排泄物は室内にしばらく放置され、掃除はめったにされず、窓を開けた換気や陽光を室内に入れることにもほとんど行われなかった。発電と送電もなかったし、電気器具や照明もない。食品は傷みやすく、汚れた水を使用せざるを得ない。
・道路は石畳。交通は馬車。泥だらけで馬糞の落ちているような道を歩いた靴のまま室内に入る。そのため室内は埃っぽいうえ、外気も悪いので換気されないから、汚いことこのうえない。
・というのも、当時のロンドンは人口流入で過密状態であり、公共財が不足していた。上下水道はほとんど設置されていない。井戸水を汲んで建物に運び込むので、その面倒のために洗濯や入浴はめったに行われない。暖房は質の悪い石炭を使っていたので、煤煙が街中に漂い、ひどいスモッグが常時あった。急激な工業化が進んでいたが、たいていの工場は労働環境が悪く(換気・採光がない、騒音、不衛生、廃棄物の放置など)、危険であるばかりか、健康にも悪い。
・医学ではコッホとパスツールの細菌病因説がそろそろ出てくるかという時期。たいていの病気は「毒素がたまる」ことで説明されていたし、医療の現場でも衛生や消毒は知られていない。食事や休養に関する概念も不充分。
 こういう実態はディケンズの小説やマルクス/エンゲルスの著作に詳しい(マルクス資本論」やエンゲルス「イギリスにおける労働者階級の状態」など)。乳児の出生率も高いかわりに死亡率も高く、結核で死ぬ人が多かった。そこからスーザン・ソンタグ「隠喩としての病」(みすず書房)に書かれたような病気の隠喩イメージがこの時代に形成される(1860年刊行のこの本にもソンタグが収集した事例に似た病気の見方が書かれている)。こういう19世紀半ばの工業化と都市化、医療に科学的方法が導入されていない時代に書かれた本であることに注意しておこう。そうしないと、この本に書かれたアドバイスの古くささに辟易することになるだろうから(換気や採光に関する執拗な注意など)。
 この本を書いたナイチンゲールは、看護学の思想家ではない。書かれているのは、実践可能な具体ばかり。要点は、1.患者をよく観察して彼らの欲するところを読んでそれに答えなさい、2.すでに実践で効果が認められた清潔と衛生をしっかりと実行しなさい、ということ。その主張を補完するのが統計データ。この本は実践者向けなので、数点くらいしか表がのっていないが、その内容は現代の科学論文でも使えるような体裁(マルクス/エンゲルスの本に出てくる表はそうではないという漠然とした印象があるので、とても目をひいた)。たぶん公衆衛生や看護教育の普及のためのパンフレットだともっとたくさん使っていただろうと思う。こういう具体と数値に徹するというのは、イギリスの人らしいなあ。それに具体に徹することなら看護士を目指す人々の知識と技量を平準化するのによいでしょう。他の国だと、「看護とはかくあるべし」「看護士はかくも崇高な・・」というようなお題目が並んでうんざりすると思う。
 そのような具体に徹する裏側には、看護士が社会的評価の低い職業であり、それに従事するのはいやしいと目されていたのを覆そうという意欲がある。この看護士向けの文章では、彼らが誇りを持つようになることと、それにふさわしいモチベーションと知識と技量を持つことを要求する。自分らの存在と活動によって注目されたのだから、さらに職能集団の価値を高めましょうという意図も込められているわけだ。

     


2014/02/04 フロレンス・ナイチンゲール「看護覚え書」(現代社)-2 ナイチンゲールは、ホメオパシーを認めていませんよ