odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

サイモン・シン「代替医療解剖」(新潮文庫)-3 代替医療は科学の持つフィードバックとアップデートの機能を備えていない。現代医療と同等の効果を持っているわけではない。

2014/01/30 サイモン・シン「代替医療解剖」(新潮文庫)-1
2014/01/31 サイモン・シン「代替医療解剖」(新潮文庫)-2

 ようやく本書の主要な内容に到達した。このような現代医療とは関係のないところに「代替医療」がある。代替はalternativeの訳語。alternativeには多様な意味があり、そこには「伝統にとらわれない新しい」とか「他の選択肢になる」とかの意味もある。これが「代替」とされると、医療の不充分なところを補完する別の体系による、現代医療と同等の効果を持つ医療を言う意味を持ちかねない。それは、この本で紹介される「代替医療」には当てはまらない。
 イギリスの状況を反映しているので、取り上げられる代替医療は、「鍼治療」「ホメオパシー」「カイロプラクティック」「ハーブ療法」。これらはイギリスでは、現代医療に浸透していて医療関係者がこれらの代替医療を施術するケースがあること、年商の大きな産業になっていること、代替医療の施術者や信奉者が現代医療を忌避して治療を受けさせないように誘導すること、現代医療と科学的評価では効果がないことが明らかになっている症状・疾病に対して代替医療が有効であると宣伝されていること、代替医療の施術によって死亡するケースがあること、代替医療の推進者が医療の資格を持たないのに診察行為を行っていること、などの問題がある。この国の「鍼治療」「カイロプラクティック」「ハーブ療法(漢方薬)」などは、過大な効果を期待させる宣伝や施術は行われていないようなので、この本ほどの問題は起きていない。とはいえ、上記以外の代替医療がネットやメディアで活発に宣伝していて、ときどき事故や事件を起こしている。
 代替医療が主張する作用機序の説明は、科学に基づく議論を受け付けない。鍼や漢方薬の「気」「経絡」「陰陽」にしても、ホメオパシーの「極度に希釈した成分を投与することによって体の自然治癒力を引き出す」という説明や「オーラ」「波動」にしても、カイロプラクティックの「イネイト・インテリジェンス」などは、彼らの思想に共感しなければ理解不能。しかもその説明は「科学」の用語を科学で使われる意味を無視して使われているので、きわめて紛らわしい。にもかかわらず、彼らの主張は高校で学ぶ科学の知識で批判可能であり、たいていの場合彼らの科学に似せた説明は科学の知見に基づくと誤っていると判断できる。また彼らは「自然」「伝統的」「ホーリスティック」であると主張するが、その言葉の示すことは曖昧である。「自然」は人間に好意的でなく、むしろ侵襲的敵対的である。伝統的であることは正しさを保証するわけではない。全体論的(ホーリスティック)であることも主張の正しさを担保するわけではない。1970年代の反科学主義や自然主義の思想が多くの代替医療に流れ込んでいる。彼らの主張は、科学が棄却した古めかしい方法に、目新しさをまぶしている。
 さらに、代替医療は、科学の持つフィードバックとアップデートの機能を備えていない。現代医療は失敗することがある。そのとき、失敗は開発や研究チームにフィードバックされ、改善や変更が加えられる。政府他へのレビューが行われて、医療関係者に周知され、モニタリングが行われる。その結果、現代医療には捨てられたり使用を制限された施術や薬剤がたくさんある。ロボトミー手術にサリドマイドに、云々という具合。それが信頼を高めるのであるが、「代替医療」でそのような機能を備えていることは聞かない。失敗や事故は当事者のミスや無知のせいにされて、施術の方法や作用機序の見直しまで踏み込まない。流行に合わせて意匠を変えて、古い主張を隠したり、新たな効果をついかしたりすることもあるようだ。放射能除染に対応するレメディを販売するたぐいの。
 自分には、作用機序の説明が科学からみて誤りであるということで、たいていの代替医療への信頼はなくなるのであるが、そのような説明に納得できない人はいるのであって、科学の側が代替医療の科学的評価を行うことになる(ここには証明責任が転化されているという問題がある)。ランダム化プラセボ対照二重盲検試験とメタ・アナルシスを使った結果は、衝撃的で(あるいはあたりまえのことで)代替医療は彼らが言う効果はなかった。きわめて限定的な症状に効果は認められる場合もあるが、彼らの主張する適応症状(たとえば各種ガン、心臓障害、麻痺など)にはまったく効果がなかった。
 注意するのは、代替医療の効果はプラセボ効果と同等かごくわずか上回る効果しかなかったことだ。ここで、代替医療の推進者や信奉者はプラセボ効果があるならば、代替医療も利用価値があると主張する。しかし、現代医療の同じ施術や医薬品はプラセボ効果があり、さらに確認された効能効果をもっているので、そちらを選択したほうがよりよいと反論できる。ホメオパシーのレメディを飲むなら医師の処方した薬の方がより効果的だし、カイロプラクティックや鍼よりも整形外科のマッサージや補助器具のほうが安上がりで同等の効果を得られる。重要なのは、これらの代替医療は施術することで、身体に損傷や障害を起こし、はなはだしい場合には死に至るケースがあること。鍼が心臓を刺したり気胸を起こしたり、カイロプラクティックで頸椎損傷と脳梗塞を発症したり、ハーブ療法に含まれた毒になる成分で致死したという事例が紹介される。ホメオパシーはレメディと称する砂糖の塊や有効成分が一分子もない水や砂糖を飲むので、それ自体は危害にならないが、重篤な疾患や症状を放置することになって、死に至る場合がある。重要なのは、この種の失敗があったとき、「代替医療」の側は施術者のミスや経験不足などに原因を帰着させ、「代替医療」の体系を再検討する仕組みを持っていないこと。そのために、科学のような「反省」の機構が働かず、同じ失敗を繰り返す可能性があり、実際にそのようなケースがでている。


 さてこのようにたいていの代替医療は科学的評価では効果が認められない(せいぜいプラセボ効果と同程度)し、被害が出ているのであるが、それをどうするか。いくつかの視点で考えることになる。
 ひとつは、患者の選択に対する介入について。自由主義では個人の愚行権(国内代表チームの勝利でどんちゃん騒ぎをするとか、初冬に堀池に飛び込むとか)は認められるからOKであるという立場から、麻薬や覚せい剤と同じく身体を損ない致死する場合もあるから規制するべきであるという立場まで。そこには人間の健康と生命が侵襲される可能性があるので、愚行を致死するまで放置してよいのか、正常な判断能力を持たない乳幼児や老人などに処置されるのを放置してよいのか。
 次には、医療関係者が代替医療を処置することについて。医学部や看護学校代替医療が教えられていたり、助産師団体が代替医療を団体構成員に研修するなどして、医療現場で代替医療が使われる場合がある。これに対してどのようにするべきか。
 三番目には、患者の家族が重篤な疾患に陥った時、本人が代替医療を望んだ場合、どうするか。拒否して患者との関係を悪化させるのがよいか、本人の意思を尊重して効果のない治療にコストをかけるか。また患者の「親友」と称して代替医療を薦める信奉者とどのような関係を取ればよいのか。友人や隣人がそういうケースに遭遇したらどうしたらよいか。
 四番目にはメディアで代替医療を扱う場合について。好意的であるべきか、批判的であるべきか。代替医療産業がスポンサーになるコマーシャルや宣伝は自由にするべきか、規制をかけるべきか。
 五番目には代替医療の推進団体について。彼らの活動は自由にするべきか、規制をかけるべきか。製薬会社には薬事法他による規制があるが、それと同程度にするのか、緩くするのか。医療従事者は資格を持つことが求められているが、現在ほぼそのような国家や自治体の資格制度のない代替医療に資格をもたせるべきか。
 六番目には種々さまざまな代替医療をひとまとめにするのか、個別の事例ごとに評価するのか。医療を忌避したり敵対的である悪質な代替医療もあれば、現代医療を否定せず協調しようとする代替医療もある。後者の代替医療には、現代医療のサービスや知見を増やす可能性があるかもしれない。それを完全に否定してよいのか。その一方、個別の代替医療の主張を評価するコストをどこが負担するのか。限られたリソースで何を優先するのか、それとも代替医療にはリソースを割かないべきなのか。
 七番目には、通常の医療費を負担できない貧困層に対して。貧困国では、医療費の支払いのできない貧困層は、これらの代替医療しかサービスされない(そういう国ではたとえばレメディは安価である)。彼らに現代医療のサービスを受けさせるためには、相当のコストが必要であるが、その負担に応じきれない。所得や資産の格差が医療サービスの質を決め、寿命を左右することになるとき、代替医療のサービスまでなくすべきなのか。
 医療は公共サービスであるので、国家や自治体がサービスのシステムや内容に介入し、規制をかけることがある。サービスの内容やレベルが地域や患者の条件で変わってはならないというのが、公共サービスの建前だから。悪質な産業化された代替医療はそのように整備された医療サービスの仕組みをたくみに利用している。代替医療の効果のない「サービス」のつけは、現代医療が払うことになり、そのコストは国民の負担になる。その一方で、個人の「自由」や「責任」をどこまで規制してよいかという問題にもぶつかる。
 本書の主張は、すくなくとも取り上げた4つの代替医療は規制すべし、であるが、これはイギリスの事情がある。これらの代替医療が、医療関係者によって使用され、「レメディ」他の薬にみせかけたものが処方箋とともに一般薬局で販売され、多くの代替医療の治療機関が営業していて、有名人・セレブが宣伝広告にかかわっていて、なにより国民に利用されているところ。状況が異なるので、著者の主張をそのままこの国に適用するわけにはいかないが、代替医療を現代医療の補完にしようとする準備が進んでいて、数は少ないながらも代替医療による被害者が発生しているとなっては、無視するわけにはいかない。自分の考えでは規制がなされるべきだが、自由の制限にあたっては慎重にという中途半端なものになる。あと「代替医療」とひとからげにするのではなく、個別ごとに評価することになる。なんともコストと時間がかかってうっとうしいかぎり。なくなればいいけど、啓蒙と教育では根絶しないのだよなあ。