odd_hatchの読書ノート

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野間宏「真空地帯」(新潮文庫)-2 ささいな窃盗で営倉入りになった経理部勤務兵士が事件を再調査する。関係者は上からの命令で口が重い。

2015/03/27 野間宏「真空地帯」(新潮文庫)-1


 木谷の過去の事件は、当時彼が勤務していた経理部でのできごと。新任の経理部担当尉官が赴任すると、それまでの尉官と対立が生じる。二人は派閥をそれぞれつくり、敵対する。前者がインテリ風で老獪であるとすると、後者は農村出の質朴かつ粗暴。軍曹くらいに昇進していれば、どちらかにつくことはその後の軍隊生活を安穏にするか、危険にするかの賭けをするにふさわしい。上等兵くらいの古参兵ではその種の策謀は無用であるし、取り込まれないことも重要。木谷のような古参兵が重視するのは、上官の風当たり(暴力を振るわないとか、気分がころころ変わるとか、自分のミスを他人に押し付けないとか)で決まる。そうすると木谷は新任の中堀中尉の側に共感する。粗暴な古参・林中尉には嫌悪だけが生じる。
 さて、経理部勤務から外されることがわかったある日、部隊視察に訪れた林中尉が財布を落としているのを発見する。そのまま届けたいところを、中身を抜いて捨ててしまった。即座に兵舎内の捜査が始まり、関係者が尋問される。そして木谷の犯行があることがわかる。起訴され2年間の懲役になった。
 ここらへんは、現代のビジネス小説にもありそうなできごと。一介の平社員に押し付けられた罪と罰は、まず組織の派閥の反目として現れるというところ。カレル・ヴァン・ウォルフレン「日本/権力構造の謎」(ハヤカワ文庫)が指摘しているのだが、この国の<システム>は責任を取る主体がなく、グループ間の対立と同調で運営される。システムの構成員は組織のミッション(あるいはリーダー)に忠実なのではなく、所属するグループの利益に忠実であろうとする。そして、グループ間は反目しているが、外部からの批判や攻撃には団結して対応する。批判や攻撃はたいていうやむやに終わらせるが、そうするにはことが大きくなるとスケープゴート(グループの中位から下位にいるものだ)を差し出して、彼を処罰することで責任と処罰が終了したとする。このあたりのしくみがみごとにわかる事件。この国は変わらねーな、とため息をつかせるようなものだ。
 警察や刑務所の内部の様子もすさまじい。拘束された木谷は6時から21時まで正座させられ、体を動かすことも看守らの承認を得ないといけない。数日のうちに彼の体から筋肉が消え、体力が喪失される。それに何もすることがないというのが精神を破壊することになる。不眠の夜を過ごすうちに、彼はも朦朧としていく。検察官の甘い言葉が彼を誘惑し、自白を促される。懲役が決まってからも、この種の監視と拷問のしくみは継続する。彼を生き延びさせるのは、林中尉への憎悪のみ。 
 そしてあれから2年。素行不良に危険思想の持ち主とされて、簡単に出獄できなかったのが、戦局の悪化で仮釈放になる。そこには2年前の事件をする関係者が数名いて、なぜ木谷が窃盗にもかかわらず長い懲役刑をくらったのかを調査することになる。公判のときには彼を支援した軍曹や中尉は彼に会おうとしない。彼の話を聞くのは、現在人事担当の曾田上等兵のみ。外出の許されない木谷を慮て、便宜を図ってやる。まあ、彼のいる部署でも派閥抗争があり、他人ごとではないというのと、不敵な木谷に批判精神というインテリジェンスをみたせいか。
 このあたりの物語は、岡本喜八監督の「独立愚連隊」だね。あいにくこの小説では、佐藤允みたいにアクションと暴力で問題を解決するわけにはいかないし、木谷は全体の情報をつかむことができないので、彼の思い込みが事件の解決を遅らせる。結局、事件は野戦送りが決まった木谷のまえに体を壊し退役を余儀なくされそうな林中尉が現れることでわかる。要するに、窃盗は大した問題ではなく、尋問中に木谷の喋った「経理部のほかの連中が悪いことをしている」という証言をもみ消すことが目的だった。新任経理部尉官は組織的な横領、収賄、背任をしていたのだが、その連隊の外に漏れ、警察が介入すると悪事が露見する。そうさせないための処罰であり、公判の便宜であった。
 自分の思い込みが誤りであるとは認識できない木谷は、すっかりニヒリズムに浸ることになる(あるいは透明な気持ちになる)。遊郭の女がようやく妄想によみがえり(財布の金を盗ったのは遊郭通いの費用が不足していたため)、家族との小さな和解ののち、南洋(たぶんフィリピン)に向かう輸送船にのる。
 その先で木谷が経験したのは、大岡昇平「野火」「俘虜記」のような地獄なのか、日本戦没学生記念会「きけわだつみのこえ」のような強いられた死なのか、木下順二「神と人とのあいだ(戯曲集II所収)」のようなB級戦犯裁判なのか。あるいは、竹山道雄「ビルマの竪琴」のようなおとぎ話のできごとか。


2015/03/31 野間宏「真空地帯」(新潮文庫)-3