odd_hatchの読書ノート

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エラリー・クイーン「Yの悲劇」(角川文庫)

 1932年作で、レーン4部作の第2作。今度は田村隆一訳の角川文庫版で読んだ。これで5回目の再読になるのかな。
 前作「Xの悲劇」では都会を舞台にしたのが、今度は一転して館の一族の事件。

 ニューヨーク有数の資産家ハッター家の当主ヨークが失踪し、入水自殺したのがみつかる。それから半年後、三重苦の娘ルイザ(1929年にヘレン・ケラーが2冊の自叙伝をだしているので、その影響かな)が飲むミルクを13歳のジャッキーが盗み飲みし、薬物中毒で死にかけた。その2か月後、ルイザの部屋に侵入した何者かが祖母エミリーを撲殺した。凶器はマンドリン。床にはパウダーがこぼされていて、足跡もある(エミリーの息子コンラッドの靴)。奇妙なのは三重苦の娘ルイザの証言で、ヴァニラの匂いがし、手で触れた頬がすべすべしていたという(点字盤を使った会話のシーンに福永武彦は感心した旨を書いている。「深夜の散歩」所収)。その数日後には、鍵をかけて封鎖されているヨークの実験室で火事が起こり、ルイザ以外の子供らには冷酷極まりないエミリーの遺言状が発表される。事件は死んだヨークが残した探偵小説の梗概が見つかるところで大きく変化する。事件は梗概の通りに進展しているので。ヨークは死んだはずではないか。まあ、巨大な館で、一貫性のない事件が立て続けに起こり、厳密な調査を進めるほど現実の人間が起こしたこととは思えなくなり、どうも姿の見えない幽霊とか怨霊とか(という言葉は使っていないが)が事件を起こしているのではないか。目に見えない存在が館の住人を翻弄しているのではないか。理性を徹底した結果、「幽霊屋敷」が浮かび上がってきたのだった。
 この家はエミリーの先祖が作り上げたもの。マスコミがこの家を「不思議の国のアリス」にひっかけて「mad hatter」と呼ぶが、それはエミリーの3人の子供が飲んだくれだったり、社交界のゴシップをつくるものであったり、なぜか詩の才能を見せたり、なによりエミリー自身の奇矯な性格のため。作者はしきりと「基地外の」「おかしな」と連呼するのだが、三島由紀夫のいうとおり、この強調はいただけない。それに一族の奇矯な振る舞いが遺伝と業病にあるという設定も今日では許容しがたいなあ(小栗虫太郎はここを採用して短編や長編を書いたのだなという感想を持った。「黒死館殺人事件」は「グリーン家殺人事件」の影響大といわれるが、むしろ「Yの悲劇」を下敷きにしているのではないかなあ。追記。「グリーン家殺人事件」の初訳は1929年、「Yの悲劇」が1934年、「黒死館殺人事件」の連載開始は1934年4月からなので無理。)。
 まあ、どうにか容認する視点を見出すとすれば、これは自然主義リアリズムではないし、社会を描いたものではない。「ふしぎの国のアリス」を使って、幽霊屋敷もののゴシックロマンスを語りなおしたのだ。(参考エントリー:中井英夫「虚無への供物」(講談社文庫)-4
 そのくらいに非現実的で、神話祖形のような人物を登場させたのだよ、と。それでもちょっと困難だろう。パズルとしては、文句のつけようもないくらいのでき。でも、家族の記述にはひっかかるところがあって、かつてのようには楽しめなかった。
 意外な犯人、マンドリンを凶器に使った理由など、すでにいろいろ言及されているところは全部スルーして、別にきのついたところをあげてみる。
・担当小説の梗概が書かれていて、事件はその通りに進展する。文書が、そこに書かれた文字が人を支配し、行動に移らせる。もちろん行動の理由は本人の心理にあるのだが、それを拡大して行動に踏み切らせる力を文書と文字が与えた。ここでは、探偵小説の梗概だが、他の本や文字で起こることがある。「聖書」とか「共産党宣言」とか「わが闘争」とか。
<参考エントリー>
ヴァン・ダイン「グリーン家殺人事件」(創元推理文庫)
横溝正史「悪魔の手毬歌」(角川文庫)
笠井潔「梟の巨なる黄昏」(講談社文庫)
・探偵は失敗する。レーンは事件の途中で関係することをやめ、警察に全部任せる。レーンに参加要請したのは警察の側だから、それを止める理由はないだろう。そのような探偵の「失敗」を選択できるのは、レーンが事件の「観察者」(作中で自身がそう言っている)に徹したから。レーンはヨーク家によく滞在し、誰とも会話をするが、誰かの代理人になったり、誰かの利益に立つことはなかった。そのような個人的な信頼の関係を拒否していた。利害関係のない第三者に徹していた。のちのクイーンの「十日間の不思議」「九尾の猫」などの探偵の在り方と比較するとおもしろい。あとになると関係者や代理人になって、事件から手を引くことができなくなってしまう。
・しかし、探偵は事件を推理し、真犯人を見出している。それを法の裁きに渡すことを躊躇し、超法規的な解決を選んでしまう。レーンは葛藤するが、それは彼の自尊心が損なわれたり推理の方法が失敗したからではない。そうではなくて、法の側にいないのに、法を執行したから。それは倫理として許されるのか。法や共同体から権力を委託されていない個人が法を執行してよいのか。結果が「善」であればそれは許されるのか(いや「善」であるとはだれも判断していないのだが)。その越権を法は放置してよいのか。「ガラスの村」の主題を転倒した問題。あちらでは一般意思が排外主義やファシズムに陥っている場合に個人は民主主義のために戦うべきかであるが、その延長上にある考えにある。
・なぜ探偵は自分の判断で法を執行できる権利を持つと考えるのか。そのような自己意識を持つ人間を組織の運営に参加させてよいのか。共同体や法の桎梏から逃れた秘密結社のリーダーが「探偵」のように人を殺す権利を執行してもよいのか。これも「第八の日」の主題のひとつ。さらには、連合赤軍事件やカルト宗教の集団自殺やテロルなどにつながる問題だ。
・レーンは、事件の監視のために、ある青年に監視を依頼する。青年はそれを拒否するのだが、彼の恋人が監視の対象に入っていて、利害関係のない第三者になれないから。探偵小説からするともったいないのだが、モラルからみれば青年の決断は立派で妥当だ。
 これらの気が付いたところは、後記のクイーンの作品に繰り返される。というより、「後期クイーン的問題」はここにほとんど出そろっているのだね。そういう点では、のちの問題作の先取り。重要な作品だと思う。
 ヴァン・ダインとカー、クリスティで、同じ問題に対する探偵の選択は異なるので、注意しておきたい。