odd_hatchの読書ノート

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小栗虫太郎「白蟻」(現代教養文庫)

 小栗の中編(一編130枚)の傑作3本を収録。デビュー作、中期、最後期と、小栗の作家生活を鳥瞰できる作品を集めた。

完全犯罪 昭8.7 ・・・ 小栗虫太郎「完全犯罪」(春陽文庫)に詳細を書いたので省略。再読しての感想は、法水シリーズは「黒死館殺人事件」を含めてこの処女作(稿料がでたということで)のバリエーションだったのだな、中国奥地を舞台にしたのはのちの伝奇小説や「人外魔境」のルーツになるんだな。処女作にはその作家の可能性が入っているというけど、なるほどそのとおり。
(ザロフの半生を仮構してみよう。以下の記述は冒頭数ページの情報に依拠しているが、細部は自分の妄想。鵜呑みにしないように。事件当時40代前半というので、1890年ころに生まれた。ウズベクユダヤというマイノリティ。モスクワ大学で化学を専攻した。1917年のロシア革命チェーカーに入り、1921年GPUに改組されたときに、「脳髄」と呼ばれるまでの手腕を発揮。小説では反体制・反革命運動の摘発を行っていたが、同時にウラルの食糧徴発や少数民族迫害の情報も入手していたと思われる。1924年レーニンの死、そのあとのソ連共産党の内紛で、自分の出自に危機を感じたので、転属を願い出て、上海に移動した。語学留学という名目であったが実態は労働組合中国共産党のデモやストライキなどの反日運動の指導。1925年の上海事件に関係していたかも。1927年に第1次国共合作が破たんし、上海からソ連軍事顧問は退去させられる。1928年のコミンテルン大会で中国革命運動の指導方針が変わったのにあわせて、軍事顧問として雲南省に移動。このころは社会民主主義共産党の敵とされていたころ。なので主敵は日本軍ではなく、国民党だった。彼の鬱屈がおもにスターリン体験にあることに注目。事件の後はどうなっただろう。1936-38年の軍の粛清に巻き込まれたかもしれないし、異国で横死したかもしれない。帰国できても収容所送りの可能性がある。彼の年齢では収容所暮らしを耐えることはできないだろう。)

白蟻 昭10.4 ・・・ 「秩父町から志賀坂峠を越えて、上州神ヶ原の宿に出」て「十石峠分水嶺に、上信の故郷を超えていく」というの実在する地名をちりばめて、一条の小径から高原に人を誘う。そこに、馬霊教なるカルト宗教の宗家・騎西家がある。周囲はオニヤエモグラという悪草が密生している陰気で瘴気ただようところ。住んでいるのは、宗主くらに息子・十四朗と妻・滝人、十四朗の弟で白痴の喜惣、妹の時江。十四朗と滝人の息子・雅一(ちごいち)。滝人の心が晴れないのは、十四朗にある。土木技師で明朗であったのが、落盤事故で一週間閉じ込められたのち、人相と人柄がすっかり変わってしまった。その変貌ぶりは、一緒に閉じ込められ死体で発見された別の陰気な労働者の入れ替わりであるに違いないと疑わせる。稚一は奇形と脳障害をもっている。唯一の希望は、時江にあるが、このレズビアンのような恋情も時江には通じない。それにくらはファナティックな狂信者で、喜惣も食欲と性欲にしか関心がなく、十四朗にもしもの時があれば、喜惣と結婚しなければならない。四方八方がふさがれている中、滝人はここを時江と逃げることを欲望しているが疑惑のあるうちは行動に移れない。このような空間も、人間関係も、現在と未来が閉塞された中、滝人はただ思いにふけるしかない。小栗らしいのは、この田舎の中年女性が、法水のごとき変態心理学と錯視の生理学に通暁して、古今の学説を縦横に駆使して物事を考えるということ。小説は滝人の心理と視線によりそい、細かに彼女の鬱屈と疑惑を描く。それによって、物語はほとんど進行しない。なにしろ、沼のほとりで上のような過去の述懐と夫への疑惑だけで、30ページ以上を費やす。一行で時間と場所を変える法水の探偵小説や伝奇小説とは趣を異にする執拗さ。これほど緻密な文章を書いた例は小栗にはほかにない。さて、仔鹿(カヨと読む)を捕まえて喰らううちに、十四朗は目の周りにやけどをおう。それをきっかけに、滝人は閉塞と疑惑を一気に解消するための行動に出た。
 序では、自信作であることが表明されている。実際、書き方が今までと違い、心理の描写が一新された。彼のキャラクターは人形であったが、ようやく滝人で血の通わせるようになった。とはいうものの、奇形や脳障害に対する考えはまったく今日的でなく、夫への疑惑が殺意に変化する理由が理解できなくて(「自分の錯誤を棚に上げるのは筋違いじゃね」)、なかなかしんどい読書だった。

海峡天地会 昭18.3 ・・・ アメリカと開戦して、マレーシアを占領していたころ。当地占領中の陸軍は緒方准尉にジャングルを踏破し、バダンで天地会首魁のチョン・ルンを逮捕するよう命じた。ここで天地会というのは桃園結義に起源を発するという漢人の秘密結社。反清復明を唱える。なにしろ紅巾の乱にしろ太平天国の乱にしろ、天地会が黒幕であったというのだからすさまじい。一時は全土に猖獗したものの、長年の皇軍の中国戦争と共産党の弾圧で青息吐息、マレーに支部があるくらいに縮小。ただ放置してはマレーの治安をいたずらに不安にするというので、組織の実態を割出し、壊滅しなければならない。そこにおいて、首魁と目されるチョン・ルンを逮捕したのだが、本人と確認できず、一夜にして刺青が生じるという奇禍もあり、断定できない。
 ここでチョン・ルンの本人確認を担当することになったのは、従軍作家・小暮に軍医・飯沼。憲兵らの妨害をしのぎながら、かつてチョン・ルンに捨てられた女形ツィ・ホォンを使って心理試験をしかけることにした。一度目は失敗。二度目の試みの最中、暗夜で停電の漆黒の闇の中、チョン・ルンが心臓まひとみられる症状で急逝した。
 まあ、密室殺人の謎解きもあるとはいえ、小説の視点の大半は作家・小暮にあり、この内気で引きこもりがちな作家が女形ツィ・ホォンへの同情から、行動に移ろうとするまでの心理描写に費やされる。なるほど現地の芝居台本の検閲をするくらいしか仕事がなく、しかも抗日・救国などの言葉を削るくらい。難渋な漢文と酷暑でもって意気阻喪するところをなんとか息を吹き返したのは、威張り散らす軍人と官僚に対する反感と意趣返しであるのだろう。ここまで作者の心情を反映した人物を小説の登場させることは珍しく、彼の負けん気を垣間見ることができる。とはいえ戦局はわがほうに利あらず、この小説でさえ身の危険を決意するのであるから、筆はこの先しばらく断たれるのであった。


 なるほど、このサイズが彼にもっとも適しているな。ストーリーは駆け足にならないし(はしょる必要がないし)、薀蓄を語るスペースも十分にあるのだし。あと、この3篇は舞台が限定された狭い場所。そこに人が来ては語り、そして去るという舞台劇のような書き方になっている。この書き方も彼には適していた。新・伝奇小説と銘打った中・長編や冒険小説だと、舞台を頻繁に変えていて、それが人の出入りを混乱させることになって、収拾がつかなくなっている。そういう欠点がでなかったというのも、このサイズに適合していると思う。
 とはいえ、この小説は読む人を相当に限定するなあ。「完全犯罪」を欠点を楽しむくらいに面白がれないと、あとの2編は読み進められないのではないかしら。自分にしても、ときに、あくびをかみ殺すことがあった。
 この文庫が貴重なのは、以下の二つのエッセイが収録されているから。
1.長田順行「小栗虫太郎と暗号」: 小栗の探偵小説にしばしば登場する暗号を解説。小栗が参考にしていた本はほぼ特定できるとか、長編・短編の暗号を実際に解読するとか。「黒死館殺人事件」の2つの暗号はこれを読んで、ようやく意味するところが理解できた。また、小栗の暗号にはしばしば間違いがあるというのも面白かった。
2.横溝正史小栗虫太郎に関する覚書」: 二人の意外な交友についての証言。横溝が「新青年」に中編を発表する直前、結核で吐血。かわりに収録されたのが「完全犯罪」でこれが小栗のデビューになった。戦後、「ロック」に小栗が新連載をする予定であった時に急逝。代わりに連載したのが横溝の「蝶々殺人事件」であった、など。小栗の側の証言がないので、これは重要で、しかも面白い文章。