odd_hatchの読書ノート

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ジョン・バース「旅路の果て」(白水ブックス)

 「ある意味で、ぼく、ジェイコブ・ホーナーだ」で始まるのは、メルヴィル「白鯨」を意識しているのかな。異なるのは、バースの主人公は、強い主張で自分の名を言上げするのではなく、とりあえずの記号の意味しかないということ。読み進むにつれて、この30歳は中身空っぽ、自意識なしであることがわかる。それも、他人に強制されたからというより、自ずとそうなったというから、まことに現代の都市人に近い。どうやらジェイコブは精神疾患の治療中らしい。躁鬱病とか身体の固着とか自殺念慮とかいろいろ症状を持っていると見える。あいにく、1956年当時には効果的な薬物はなく、休養を取るか、医師のさまざまな治療法を試みることになる。ここで彼の行っているのは「神話療法」というもの。まあ、ライフストーリーにおいて自我は自分を主人公としてふるまうのだが、ジェイコブくんはつねに傍役になっていて、何かの役割を果たすことができない。なので、さまざまな神話の主人公に見られる人格の典型を真似して、状況に応じて仮面のごとく取り替えなさい、意味とか価値とか未来とかを考慮するのはやめて、ふりをすることに徹しなさい、ということだ。現実の疾患においてこの療法に効果があるのかわからない。
 とはいうものの、ジェイコブくんは複数の神話類型の仮面をかぶって使い分けることはできない。でも、ウィコミコの州立学芸大学の英語学の教員に収まることができる。面接の日を取り違えるわ、車にキーを忘れた中年女性をアパートに送るとさっそくベッドインするわ、教員室の隣室にある教員に夕食を誘われると、自ずとその奥さんと不倫をすることになるわと、まあアンモラルなことばかりする。いったい、このジェイコブくんは、自閉的で社交を苦手としながらも、誰かを相手にしたら優越になることに躍起となり、役割や人格の首尾一貫性をまったくもたないのである。したがって、社会の規則やマナーを要求しても、まともに実行することができない(でも、「まとも」ってなんだ?)。
 ここでのジェイコブくんは、認識メカ、刺激への自動反応メカになっている。ガタリのいう、「メカは自閉的で、外部とは完全にコード化された関係しか持たない(「光速と禅炎」)」を採用したため。外部との関係がないので、感情もないし、意思もない。相手の行動に自動的に反応するだけ。抑制も節制もなし。そのようなメカ=ジェイコブくんは型通りの反応をするものだから、メカと人間の区別のつかないほかの人たちは彼に「人間らしく」接する。しかし、彼の反応は「人間らしく」をすべて裏切るので、付き合うほどにだれもが悲惨な状態においやられていく。中年女性は自己嫌悪に陥る。ジョーとレニーの夫婦の行く末の悲惨なこと。(同時代に不倫を描いたものでは、グリーン「情事の終わり」、PKD「戦争が終わり、世界の終りが始まった」「小さな場所で大騒ぎ」がある。三角関係の葛藤においてはこの作がもっともリアリティが不足。その代わりに人工中絶の悲惨さ、肉体損壊の恐怖が強かった。)

 まあ、いってみれば、ジェイコブくんは「神話療法」のネタとして「オデュッセイ」を選んだ。そして故郷を離れて、だれも知らない町に着く。そこで世界の不安定や穢れを追い払うはずであったが、オデュッセイの仮面をかぶれないジェイコブくんは世界を混沌と不浄にすることしかできない。結果、夫婦を破滅させ、彼を支援する人々(おせっかいな治療者や大学の教授たち)に被害を与えてしまう。皮肉なことにジェイコブくんは不幸にもならず、不安の棘がささることもなく、叡智を持つことももたらすこともなく、やっかいものであることを見破られない。これだけの騒動の末に、彼一人がまったくどこも変わっていない。まあ、メカ・オデュッセイだもんな。ぎくしゃくするわな。現代の神話はこんなふうにしか語れないのだろうねえ。ここまで考えてタイトルを読み直し、作家の仕掛けに愕然とすることになるのかな。あるいは、近代文学が一生懸命構築してきた自我とか主体とかは、実はこんな程度のうすっぺらいもの、現代人はみんなジェイコブくんみたいに空虚なメカみたいなのだよ、ということか。なんとも世知辛く、シニカルで、愚かしいものだねえ。
 あとは、この作品が24歳の青年に書かれたこと(1958年初出)、英語の文法や心理学、心理療法に関する広範な知識、ストーリーテリングの見事さに驚くことになる。この後のバースの作は、だんだん込み入った構成になって読み取りづらいらしいので、この作の平明さは特異的なのかな。