odd_hatchの読書ノート

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フョードル・ドストエフスキー「作家の日記 下」(河出書房)-3 (1880年)

 「カラマーゾフの兄弟」連載のさなかの1880年と81年に「作家の日記」が再開された。

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 1880年プーシキン論(1880年6月8日、ロシア文学愛好者協会大会での演説)。「作家の日記」収録にあたって、ドスト氏は「釈明」を書いている。それによると、ドスト氏は演説で、プーシキンが1)ロシア的感情の表現、2)ロシア的美の芸術的典型、3)世界文学、4)全民衆と共有ということを述べたのだという。それを念頭に本文を読むとはぐらかされる。前半は「オネーギン」のタチアナの愛について述べていて(チャイコフスキーの歌劇は聞いたことがあるが原作は未読なので何とも言いようがない)、後半はプーシキンのような民衆作家を生み出したロシア国民と精神を賛美する。ドスト氏の釈明の意図が測りかねる内容だった。自分は、文学が国民や民衆を描くとか、結びつけるという議論は受け入れがたい。なので、この演説は退屈だった。プーシキンのほかの作品やゴーゴリなどを思い浮かべると、ロシアの文学はヨーロッパから輸入したものを定着させる試みとして始まる。当然、民衆芸術と方法が異なるので(異国の方法を模倣する)、国民や民衆を典型として描きようがない。次の世代になると、文学は所与のものとしてあるので、最初の世代のような苦労や違和はない。そうすると国民や民衆を描いたように思えるのだ。次の世代の代表であるドスト氏が先行する世代への敬意を示したのだろう。さらには、農奴解放令から始まるロシアの近代化が成功して、西洋列国の仲間入りをし、帝国主義の一員になる。近代国家の成立が、国民や民衆の芸術の起源を必要としていて、プーシキンを発見したのでもあるだろう。ちょうどドイツがゲーテやシラーを必要としたのと同じように。

フョードル・ドストエフスキー「プーシキン論」(米川正夫訳)
フョードル・ドストエフスキー「後掲『プーシキンに関する演説』についての釈明」(米川正夫訳)


 「エフゲーニ・オネーギン」のタチヤナの選択に関連してドスト氏は次のように述べる。

「もし幸福が他人の不幸の上にきずかれるならば、それがなんの幸福であり得ようぞ?ひとつこういうことを想像してみていただきたい。諸君が究極において人々を幸福にし、ついには彼らに平和と安静を与える目的をもって、みずから人間の運命の建物を築くとしよう。そこで、このためには必ず不可避的に、一人の人間を苦しめなければならないと仮定する。しかも、それはあまりたいした存在ではなく、見る人の目によっては滑稽に見えるくらいで、シェイクスピアとかなんとかいったような偉人ではなく、たかが潔白な老人というだけのことである。それは、若い妻の夫で、その妻の愛を盲目的に信じ、その心はまったく知らないながらも彼女を尊敬し、彼女を誇りとし、彼女によって幸福であり、平安なのである。つまり、こういった人間ひとりだけを辱しめ、穢し、苦しめて、この穢されたる老人の涙の上に自分の建物を築くのだ!はたして諸君はかような条件において、かかる建物の建築技師となることをいさぎよしとせられるか?これが疑問である。もしその土台に、たといつまらない存在であるとはいい条、不正に容赦なく苦しめられた人間の苦痛がこめられているならば、かかる建物を建ててもらった人々自身が、はたしてかような幸福を受け取ることに同意するだろうか。またその幸福を受け取ったにもせよ、永久に幸福でいられるなどという思想を、ただの一瞬間でも認めることができるだろうか?あれほど高尚な魂を持ち、あれほど苦しんだ心を持つタチヤナが、あれ以外の決心をすることができたかどうか、伺いたいものである。いな、純なロシヤの魂は、次のように決心するのである。「たとえ、たとえわたくし一人が幸福を失ってもかまわない、たといわたくしの不幸のほうが、この老人の不幸よりはかり知れぬほど大きかろうと、またこの老人をはじめだれ一人として、永久にわたくしの犠牲に気づかず、しかもその値を知ってくれなくとも、わたしは他人を滅ぼしてまで幸福になりたくない!」ここに悲劇が存するので、この悲劇はついに完成される。最後の境界を越えることはできない、時はすでにおそい。かくして、タチヤナはオネーギンを立ち去らせたのである。」

 ほぼ同じ内容が「カラマーゾフの兄弟」に出てくる。

「さあ、答えてみろ。いいか、かりにおまえが、自分の手で人間の運命という建物を建てるとする。最終的に人々を幸せにし、ついには平和と平安を与えるのが目的だ。ところがそのためには、まだほんのちっぽけな子を何がなんでも、そう、あの、小さなこぶしで自分の胸を叩いていた女の子でもいい、その子を苦しめなければならない。そして、その子の無償の涙のうえにこの建物の礎を築くことになるとする。で、おまえはそうした条件のもとで、その建物の建築家になることに同意するのか、言ってみろ、うそはつくな!(カラマーゾフの兄弟 2」光文社古典文庫P248」

 アリョーシャはしずかに「いいえ、しないでしょうね」と答える。そのように答える人をドスト氏はアリョーシャの前に見出していた。この問いは、入管問題や外国人技能実習生の問題を見るとき、強いアクチュアリティをもつ。日本そのものが他人の不幸の上に建てられた建物であって、そこに住む人たちは、不幸な人たちをいないことにし、見ていない。ドスト氏はそのような不幸な人たちを「死の家の記録」にあるように監獄で見出して、彼らを「せめて人間らしく」扱えと訴える。日本人はドスト氏の問いと訴えに耳を傾けているか。
 米川正夫の解説によると、ドスト氏の演説はスラブ主義者には評判が良かったとのこと。ただし、プーシキン祭のあとで同じような批判をした西洋派がいたようで、ドスト氏は長い反駁文を書く。汎スラブ主義とロシア正教で正当化しようとする。そこにヨーロッパ批判と反ユダヤ主義をトッピング。筋の悪い議論(それを肯定する訳者解説は、うーん、困ったなあ)。
 1881年は財政論と銘打って、素人の経済政治談議。これも「論文・記録」以来の主張の繰り返し。第2章の後半でアジアがでてくるのが目新しい。南下政策を取れなくなって(イギリスやドイツの反対だろう)、シベリアからアジアに向かう政策になったことの反映かな。
 奇妙なのは、ドスト氏は皇帝に何か言ったことがない。日本の愛国主義者のような偶像としての役割をロシアの皇帝はもっていないのだ。たしかロシアの皇帝は家代わりを起こしていて、国作りの神話を民衆と共有していなかったはず。それにいくつかの皇帝一族は外からやってきたものだったはず。日本のナショナリズムとは異なる。(全集別巻「ドストエーフスキイ研究」によると、皇帝の言葉を許可なく印刷してはならないという規則があったとのこと。政治犯のドスト氏が編集する雑誌には厳しい検閲があったということだ。)
 1881年は没年。度重なる癲癇発作、若い時の無理がたたって体調はぼろぼろ。そういう中で書かれたものだった。

< 追記 2019/12/16>
 亀山郁夫「『カラマーゾフの兄弟』続編を空想する」(光文社新書) によると、続編では皇帝殺しが主題になるとのこと。皇帝に関する記述がなかったのは、そのことを深く考えるには目先の仕事が急務であったし、うかつに書くには重すぎる主題であるということなのだろうと妄想。

 

     

    

 4か月かかって「論文・記録」「作家の日記」を読んだ。創作を除いたドスト氏の文章は読むのがつらい。まこと砂、砂、小石ばかり。いくつかの珠玉は創作でのみ見ることができる。それ以外の文章は粗雑で冗長、事実や観察に即していないで妄想ばかり、イデオロギー優先で差別も加わる。ドスト氏の小説にある雄弁さ、心理の掘り下げ、会話のポリフォニーなど、彼の長所はほとんど見られない。それなのに、小説ではあのような成果をだす。不思議だ。