28から30歳くらいの元教師・西村がいる。彼は結婚し子供もいるが、この5年間熱中していたのは、父母らが入居していた長屋の住人36人の伝記を書くこと。出生も仕事も年齢も共通していない36人であるが、共通しているのは1945年8月6日8時15分に広島で死亡したこと。すでに1960年代には被爆者の手記が盛んに書かれていたが(占領が終わってGHQの検閲がなくなったことと、ビキニ環礁で日本漁船が被ばくした。原水爆禁止運動が起こり、その影響があった)、西村はそのままでは消えてしまう記憶を言葉に残すことがとてつもなく重大な仕事であると思えた。しかしあまりの熱中を妻子は理解せず、元からの他人嫌いや無関心のせいもあって、三行半を突き付けられる。原稿を完成した西村は離婚し、教師を辞め、出版先を探すべく大阪市内とうろつきまわる。直ぐに金はつき、貧民街の安い宿屋に長期宿泊し、時に日雇いに出なければならない。
初出が1965年なので、現在を書いたとすると、西村は1935年頃の生まれ。田舎の貧乏人のせがれであるが、占領終了後に学生になった。そして社会変革を志し、おりからの共産主義運動に参加するのであるが、時は山村工作隊に破防法反対闘争に血のメーデー。共産党の指導と大学の処分、警察の弾圧に、学生の冷笑と敵対。学業の時間をとれないくらいになる。そこにハンガリー動乱事件とスターリンの死、さらに六全協で共産党の方針転換が起こり、学生たちは消耗させられる。折からの不況と、新卒採用企業の「思想調査」で学生運動にかかわることは就職が不利になり、卒業しても仕事にありつけなかった世代だった。
西村は出版先を見つけるために苦労する(すでに類書が多数あって売れ行きが期待できないのに、本文1200枚解説100枚という大作)。そこで学生時代の友人を頼るが、彼らもうだつのあがらないパッとしない人物ばかり。ときに病気で瀕死であったり、転勤命令を受けて失踪したりしている。あるものは自殺している。彼らは饒舌ではあるが(学生時代の理屈好きを残す)、金はない。弁は立つが、何かをしようという意欲はない。学生運動時代の挫折が彼らを鬱屈させ、社会の余計者であるという意識を強くもたせるのだ。それに彼らが互いに会いたくないのは、学生時代の議論の仕方を引きずっていて、相手をやり込めたり攻撃したりせずにはいられないから。会えば傷つくのがわかりきっている旧友に誰が好んで会いたくなるものか。西村の初動はこれらの「憂鬱なる党派」に波風を立たせずにいられない。
いわばドストエフスキーの「悪霊」第2部でスタヴローギンやピョートルが他人を訪問するごとに対立と不信が沸き立つのと同じだ。でも俺はもう少しドメスティックな作品との類似を見た。すなわち、1960年に航海されてすぐに上映を打ち切られた大島渚が監督した「日本の夜と霧」。1960年の安保闘争のあと、西村の世代の新聞記者が20代の学生と結婚式を挙げる。すると集まるのは、20代前半の共産党員とブント活動家に、西村と同世代の六全協で挫折した中年、あとは戦中に沈黙してあとマルクス主義を掲げた研究をしている40代以上の年寄り。映画は彼らの対立をユーモラスに描くが、この小説では真ん中の中年世代だけが登場し、映画と同じような議論を繰り返す。この議論はうっとうしい。憂鬱になる。
これが描かれた当時や自分が初読した1980年ころにはこのうっとうしさを批判する視点はなかった。でも21世紀には彼らのダメさはある程度説明できるかも。詳細はリンク先を見てもらうとして、この人たちの政治は共産党の運動に限られるのであって、党とどういう関係を持つかというところで政治とのかかわりを考えていること。ことにレーニンの革命家観念が強く彼らを拘束していたので、24時間365日革命家になれないものや党のやり方に納得できない人は後ろめたさを持っていたのだった。大島渚の映画にもこの小説にも実家が富裕で十分な支援をしてくれるので、党の幹部になって24時間365日政治運動ができるものがいる。貧乏学生は当然そんなことはできないし、実家の支援を望むどころか実家に仕送りをしないといけないので就職は重要な問題になる。という党活動の関与に格差があるので、彼らはいがみ合い、相手の傷を広げるようにしか関係を持てないのだ。とすると、彼らの憂鬱と隘路から抜け出すには、党の関与することなしの運動を作って、気が向いたときに、自分ができることをやれるようにすればいいのだ。ということはリンク先を参照。
さらにこの人たちは労働を嫌い、生活を嫌う。レーニンの「国家と革命」で革命家に定職を禁じたように、賃労働をすることは資本主義の網に取り込まれることになるからだ。なので、金のない西村が宿に選んだ貧民街に行くことを嫌う。臭いや路上のごみや酒びたりの人々に接触することを嫌う。あわせて生活することを軽蔑する。男たちは家事をしない。飯を作らない、掃除をしない、洗濯をしない。そういうことはすべて女に押し付ける。労働嫌悪や生活嫌悪をもっているのにその自覚がないものが、労働者や女の仕事の上にのっかって威張っている。彼らの憂鬱や退廃にはちっとも共感しない。
「憂鬱なる党派」の人々に感じる違和は、以下のエントリーと共通していそう。
高橋和巳「憂鬱なる党派 上」→ https://amzn.to/3SyZE3R
高橋和巳「憂鬱なる党派 下」→ https://amzn.to/4bzwWby
2024/03/14 高橋和巳「憂鬱なる党派 下」(新潮文庫)-1 日本の教養主義者の没落過程を描いた大長編。 1965年に続く