高橋和巳は長編を主に書いていて、短編は極めて少ない。たぶんこの一冊だけ。解説には発表場所と年が書いていない。いつどういう状況書かれたものかはとても重要な情報なのに、そこに触れない解説や評論は無用。おそらく「悲の器」の前に書かれた習作だろう。いくつかの短編はのちの長編につながりそうなテーマを扱っている。
散華 ・・・ 電力会社法務課の大家は鳴門海峡の個人所有の島を鉄塔建設のために買収する仕事を任された。そこにいたのは国家主義者だった老人。彼のファナティックな国防論に影響された士官は特攻を計画した。大家は元特攻兵だった。今は隠遁して自給自足の生活をする老人は大家にナショナリズムや国家の議論をふっかける。なんとも生硬なディスカッション小説。日本では哲学的な議論を小説に書くのは珍しい(埴谷雄高の影響が表れている)。あいにく30代前半の作では整理するのでせいいっぱい。社会から孤絶したという隠遁者が雄弁で理路整然とした議論を初めて、観念の化け物になってしまった。こういう青臭さはどこかで見たと思ったが、そうか笠井潔「バイバイ、エンジェル」「ヴァンパイア戦争」でした。二人がこれらの作品を書いた時期はほぼ同年齢でした。
ここでの見どころは小説の構成のうまさと人物の対比のさせ方。語り手の元特攻兵は「土地より金」とうそぶくモッブで出世志向の俗物。こういうアプレ・ゲールの屈折は大江健三郎の「遅れてきた青年」のと比較してよい。そういう技巧が優れているので、議論の中身が薄っぺらくても、読めるのだった(随筆、評論では小説の技術を披露できないので、生硬な議論に閉口することになる)。
生硬さや青臭さは例えば以下のところ。この単純で、民族差別もあるような記述はどうにも擁護できない。堀田善衛ならもっと複雑で多面的な認識と書き方をするのに。
「国境というものがいかに不合理なものか。いらだたしい腹立ちで思ったものだった。パキスタン、シッキム、そして、インドと中国の国境地帯にも、遊牧民がいる。彼らは草地をもとめて国境を無視する。国籍よりも生活の方が大事であり、宗教的な戒律よりも、また日々の哀楽の方が大切だからだ(P56)」
貧者の舞い ・・・ 貧民街に住む姉妹。異臭が漂う街で、子供らや番人らは姉妹を嘲笑し、アル中の母は子供をほったらかしにして男を連れ込む。医師や教師や警察はその町に関わろうとして、拒絶される。姉妹は街から脱出する方策を考える。黒澤明「酔いどれ医師」にでてくる貧民街よりもっとひどい町(似ているのは土門拳「筑豊のこどもたち」@腕白小僧がいた(小学館文庫)。たった半世紀前には、ここにあるような貧乏は日本中のものだった。うっとうしくなるのは、この貧民街は同和問題がかかわるものであり、資本主義が個人をアトムに分解して孤立化させ、協力関係を生まないこと。参考になるのは、フリードリヒ・エンゲルス「イギリスにおける労働階級の状態」と椎名麟三「懲役人の告発」(新潮社)。
あの花この花 ・・・ 昭和20年春、大阪にある軍需工場。労働環境は劣悪で、ろくな仕事もできず、連夜の空襲で人が死に、空腹で栄養失調になっている工員と徴用工と動員学徒。理由なくなぐり合い、よその介入を拒み、風呂で合唱する。戦時下の人間の退廃。
日々の葬祭 ・・・ 貧民窟に住まう家族に結核の娘がいた。家族は娘に冷淡で(金がないので治療できない)、往診する医師も打開策がない。それは医師が貧民医療を志したら金を持ち逃げされ、借金と家族からの軽蔑だけが残ったから。日本はこんなに貧しかった。でも、昭和20-30年代の結核文学はもう少し明るかったのだが。椎名麟三「永遠なる序章」(新潮文庫)、福永武彦「夜の時間」(河出書房)。また上記の黒澤明「酔いどれ医師」の結核に罹患した娘の描き方も参照。
飛翔 ・・・ 鳥が飛翔し、天敵に襲われたり暴風雨で力尽きたりして、ようやく日本に到着した。生態ではない記述をすることで、群れとしての鳥を何かの暗喩とする。リチャード・バック「カモメのジョナサン」、大江健三郎「鳥」、ヒッチコック「鳥」と比較せよ。
我れ関わり知らず ・・・ おそらく昭和30年代の関西のプレス工場。復員兵と元学生の兄弟が零細工場を経営している。戦後に建てたバラックに古い機械を据え付けているので、騒音と振動がひどい。勉強の機会を奪われているので、技術革新も設備投資もままならず大手の下請けでいじめられている。そこに不況が来たものだから、工場は人員削減をしなければならず、卸単価を値下げされ、ますますうまくいかない。そこに従兄が経営する工場で従兄が自殺する騒ぎがあり、工場の始末と残された一家をどうにかしないといけない。自分は結婚もままならず、学生時代の夢も潰え、どうすればいいかを自問すると「金が欲しい」しかでてこない。さらに、自社製品とそっくりな製品がどこからか現れ仕事が減る事態まで起こる。いったいどうすれば・・・。日本は貧しく、資本は下請けを搾取することで独占化し、政府与党と組んで大衆庶民を貧しいままにしたのだった。そういう主張が聞こえそうな陰鬱で陰惨な物語。敗戦後のプロレタリア文学を目したのだろうが、ここからは「変革」「共同」「民主」などの声は聞こえない。
河出文芸読本「高橋和巳」(河出書房)に収録された掌編。
老牛 ・・・ 老牛が暴れて母を角で突き殺す。翌日、父は牛を売りにいったが、途中の濁流で突然牛はあばれ川に落ちて流される。最後に朝鮮戦争当時のできごとという種明かしがある。
共通するモチーフは脱出への希求とそれが不可能なあきらめ。前者は怒りをよび、後者はいらだちを募らせる。「いま-ここ」に居ることが不愉快でたまらないのに、それを実行することはなく、現状にずるずるとよりかかるしかない。「いま-ここ」の不愉快さは自分の内面に問題があり、何かしたいことをあきらめて、とりかからないことにある。なので問題はそうなる自分の内面を精査することだ・・・。こういう自縄自縛(PKDの言葉を使えば「フィンガートラップ」)を書き続ける。
たぶんこの閉塞感のもとにあるのは他人への不信と無関心にあるのではないかな。「頭の悪そうな中学生」「臭いスカートをはいた女事務員」「愚かな娘」「神経衰弱のように青白く額のひろい青年」「一介の老いぼれた田舎者」。人物評を適当に抜き出した。ここにあるように他人の最初の印象は常に悪く、その印象は覆されることはない。したがって、他人との関係は常に薄いか、ほとんどないか。あるいはけんかかいじめか。そのような心持では、他人から好意を持ってもらうとか、支援をうけるとかが期待できない。ここまで書いて、ほとんどの長編で、主人公の男は他人との関係を悪化させて孤立していくのだった。語り手の観念好きも希薄な人間関係を埋めるためのひとりごとに思えてしまう。(あとたいていの男性は強い女性蔑視とパターナリズムがあるので、21世紀の規範からするとみな嫌な奴・ダメな奴になる。福永武彦と同じ。)
高橋和巳の破滅志向や孤独癖は、観念の囚われから生じるのではなく、彼のコミュニケートのやり方にあるのではないか。