odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

現代史の会編「現代革命の条件」(亜紀書房) 70年安保闘争を控えた新左翼諸派の闘争方針を収録。革マルと中核がいっしょに収録されているのが珍しい。内容はもうどうでもいい。

 1969年春。70年安保闘争を控えた新左翼諸派の闘争方針を収録したもの。革マル、解放、ML、共同、中核など6派が論文を寄せている。まだ内ゲバの始まる前で、革マルと中核がいっしょに収録されているのが珍しい。内容についてはというと、今から35年前のことを現在(2005/5/25現在)の視点で批判しても仕方がないだろう。細部で正しいと思われる指摘も全体の論理の中ではばかげているというのが今のところの感想。

 個別党派には関係なく指摘すると、どこの「理論」にも経済学がないこと、現実の分析がなく幻想を当てはめてしまうこと、根を捨てることや自己破壊することに陶酔していること、などの種種の問題がある。
 内容からはずれるが、20世紀共産主義運動の問題は戦時動員体制(ないし秘密結社)でその運動や体制が作られたこと。そこでは、市場と構成員の自由が統制され、権力の範囲が拡大され、上位下達の指示系統が貫徹され、云々というような状態が作られる。なにしろ、戦時体制では計画経済が簡単に達成できるからだ(戦時経済においては、特殊な用途の需要が非常に拡大し、それに消費することが最大に優先される。そのとき資源・減量の制限があるときに、特殊な用途の需要に応えるためには、資源の分配を市場にまかせるわけにはいかず、国家自身がその分配計画をつくり、強制的に運用しなければならない。それが戦時体制の経済になるのだ)。そして戦時動員体制はファシズムでも資本主義(といわれている体制下)においても、同じようなものなのだ。ロシアにしろ中国にしろ外戦と内戦が数十年に渡って継続していたという事情がありながらも、それが終了してから後も戦時体制から別の体制に移行することができなかった。むしろ移行したくなかったのか。
 権力はそれ自身を継続することを目的にするということもあるが、もうひとつは戦時動員体制においては常に「敵」を必要とすることもある。共産主義国家はつねに内戦から生まれていて、国内外に「敵」が実在していた。彼らが権力を手中に収めた後も、「敵」がいるのではないかと疑心暗鬼であったことも背景にあるだろう。また、国民の統制のために「敵」を設定し、彼らの不満や憎悪を振り向け、体制の不備に目を瞑らせる目的もあっただろう。いずれにしても、「共産主義」は「敵」を、しかもそれは身近にいるほどよい、必要とするのだった。
 そのような心性というのはニーチェの「弱い人間」に特有であるものだ。(以上2005/5/24記す)
 もうひとつは、マルクス以降の「共産主義者」は(社会的)弱者による(精神的)強者の論理であること。この論理の形式は、ニーチェのいう奴隷の論理と同じで、「お前は悪だ、だから自分は善だ」というもの。だから、他者に対して高圧的であり、威嚇的であり、侮蔑的である。それはマルクスエンゲルスの書いた文章に顕著に見られるもので、罵倒の能力が高いものほど組織の上に立つことができるようになっている。
 しかもそこに自己陶酔の感情が加わるものだから、彼らは鼻持ちならない。「大衆」と「党」あるいは「前衛」という区別をし、「党」や「前衛」にいる自分自身が最も正しく・優れていると自己評価をし、他者の批判を受け入れることができない。
 そのことはキリスト教の異端闘争でも見られたことで、観念に縛られたものたちは自分を善と自己評価しているために、他者をいたぶることを躊躇しなかった。あるいは幕末の倒幕闘争においても藩やグループ間の殺傷においてもみられることだった。このような異端あるいは意見を相違するものに対する寛容については、どの党派も「自己批判」をすることがない。
 この本が書かれた1969年(2月の出版なので執筆は1968年か)においては観念的なところにとどまっていて、現実問題にはならなかったが、数年後の連合赤軍事件や革マル・中核の内ゲバにおいて一気に噴出し、どの党派も解決能力を持たなかった。そこにいたる思想の痕跡はどの党派の論文にもみられる。
 最初のうちこそきちんと読むようにしていたが、4本も読むとばかばかしい。最後の論文は読むのをやめた。(以上2005/5/25記す)
(若書きで気恥ずかしいですが、そのままにします。)