odd_hatchの読書ノート

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大内力「日本の歴史24 ファシズムへの道」(中公文庫)-3 関東大震災の復興事業と金解禁、世界不況。先進国がブロック経済圏を作ったので、日本とドイツの侵略行動はブロック経済圏を破壊する行為だった

2021/03/02 大内力「日本の歴史24 ファシズムへの道」(中公文庫)-1 
2021/03/01 大内力「日本の歴史24 ファシズムへの道」(中公文庫)-2 の続き

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 経済で重要なのは、関東大震災の復興事業と金解禁、世界不況。前二つは、別に読んだ本のエントリーに詳述したので参考に。
2011/05/16 徳川直「太陽のない街」(新潮文庫)
2011/05/24 高橋亀吉/森垣淑「昭和金融恐慌史」(講談社学術文庫)
2015/03/20 長幸男「昭和恐慌」(岩波現代文庫)
2015/03/23 中村隆英「昭和恐慌と経済政策」(講談社学術文庫)
 ここではその後を簡単に。金解禁によって外貨が海外に流出。デフレの進行と円高株安。そこに世界不況が加わって輸出がまったくふるわなくなる。財政収入が減少して、地方自治体に破産するところが発生する。この時の処理は、大企業のカルテル化、中小企業の倒産、農業の窮乏(増税と小作料増加など)。大企業を優遇して、庶民・大衆の負担を増加することで乗り切ろうとする。このとき財閥化した企業だけが儲けるので、右翼やファッショ化した軍部が財閥を敵視する(のちの515事件、226事件などのテロで対象になった理由)。左翼も運動したけど弾圧されて、1930年ころまでにほぼ消滅。
 そのあと高橋是清が蔵相になって、経済政策を転換。平価を切り下げて円安を維持し、積極財政で失業対策をとる(土木事業で農業インフラを整備した)。ニューディールやナチが行った施策を数年先行して行った。これで1933年には世界不況前の水準に戻ったが、平価切下げに円安維持は輸出先からすると国家的なダンピングにみられる。欧米が反発したが日本は改めない。なにしろ財政が増えても軍事費に回るので、経済の生産性向上や合理化が進まないから。軍需品生産で売り上げと利益を上げている重工業の企業がこの状態を望むから。ダンピングと低賃金が昭和10年代になると、中国満州の敵対的な軍事行動と合わせて、国際問題になり、戦争の理由になる。
(世界不況以後、先進国がブロック経済圏を作ったので、日本とドイツの侵略行動はブロック経済圏を破壊する行為だった。閉鎖的な市場を作ったので、排外主義や民族差別がどこでも起きる。)
 この経済性格の失敗は重要な教訓をもっているので、不況時にしてはならない対策をたくさん発見することができる。そして21世紀10年代の日本の経済政策がこの時代の経済政策に類似していることに注意。
 本書のトピックのひとつは226事件。この失敗したクーデターには俺は興味がない。日本人が陰謀好きであること、長期的なプロジェクトを構想できないこと、戦術や戦法にこだわって戦略や戦術をないがしろにすること、失敗したプロジェクトの責任をだれも取らないこと、むしろクーデターの標的になった側がクーデターを利用して組織の独占を図ったこと。こういう日本人のだめさがきわだった愚劣なできごとだった。

 

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エーリヒ・マティアス「なぜヒトラーを阻止できなかったか」(岩波現代選書) その答えを左翼のせいにすると、有権者や政治制度の問題が棚上げされるし、左翼でない者たちは責任がないことになる

 WW2敗戦後、まず哲学者が表題の反省をした。ヤスパースやマイネッケ(「ドイツの悲劇」中公文庫)、マックス・ピカート(「沈黙の世界みすず書房)を読んだ記憶がある。ドイツ精神を問題にした抽象的な議論のあとに、社会学政治学から反省の書が出た。これがそのひとつ。1960年初出で翻訳は1984年。
 かつては「なぜヒトラーを阻止できなかったか」の問いに、社会主義者共産主義者に責を負わせる議論があった。これは筋がよくない。ヒトラーらを選挙で勝たせた有権者を問題にしないといけない。左翼のせいにすると、有権者や政治制度の問題が棚上げされるし、左翼でない者たちは責任がないことになるから。少数者に責任を負わせるのは、差別やいじめを温存する精神とおなじなので、やってはいけない。と読む前に自戒のメモを残す。
 著者は1921年生まれで戦争中動員された経験をもつ、ドイツ社会民主党SPD)研究者。1984年に交通事故で死亡。

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第1部 なぜヒトラーを阻止できなかったか-1933年におけるドイツ社会民主党の崩壊
ドイツ社会民主党ヴァイマル共和国 ・・・ 1920年にヴァイマル共和国ができたとき、SPDは連合政府の一角を担う。でも賠償金の支払いと世界不況の対策を巡って保守の二党と分裂。そこに1930年の総選挙があって、ナチスが第二党に躍進。1933年1月31日にヒトラーが権力を掌握。その半年後にSPDは非合法化されて組織的な抵抗を止める。そこまでの経緯を以下明らかにする。本書の章立ては以下。

寛容の政策 / ブラウンとブリューニング / 抵抗への意思 / 1932年7月20日のプロイセン・クーデター /
政治的地歩の喪失 / ヒトラーの政権掌握前後における抵抗の意思の衰退 / 共産党との関係 / 党内からの援助の期待 / 授権法の拒否 / 半合法状態の下で / 労働組合の離反 / 5月17日の決定 / ベルリン派とプラハ派の相克 / 非合法活動の開始 / 一つの時代の終焉?

 1930年9月14日の総選挙でナチスが第二党になり、1933年5月にSPDが非合法化されるまで。その間に抵抗運動が労組などから起きたことがある。1932年7月10日のプロイセンクーデターで人々は路上に集まった。でもSPDは中止の命令を出す。1930年以降、ナチスは傘下組織を使って左翼党員、労組などを威嚇し襲撃しテロを行った。1933年1月30日の反ナチデモがあり、かこつけた国会放火事件で共産党を非合法化し大量逮捕。SPDの執行部はテロの対象外になっていたが下部組織が弾圧された。多数が逮捕され、幹部の亡命が相次ぐ。SPDの組織は崩壊し、労組はSPD党を見放し、翼賛組織になろうとした(即座に弾圧される)。33年5月で組織的な抵抗は終わり。以後は小グループや個人の抵抗があったくらい。戦後SPDは組織再建し、かつての党員が参集する。でも著者の見る限り、戦前組織の問題は解決しなかった。
 通常、「なぜヒトラーを阻止できなかったか」に対しては左翼の分裂や対立に原因があるとされる。なるほどSPDの優柔不断と組織温存戦略の誤り、共産党の戦術の誤りなどがあげられる。本書でも、組織の硬直性、分裂や対立(国内執行部と亡命執行部で確執があったとか)、ファシズムへの幻想(「野蛮でもそこまではやるまい」「野蛮だからいずれ自滅」など)が問題とされる。それはそうなんだけど、やはりナチスの野蛮とそれを支持した大衆に原因をみないと。本書は社民党にフォーカスしているから見えてこないけれど、ナチの暴力のエスカレートが大衆を萎縮させた。なのでナチが小さい時に、街頭でメディアでたたいておかないといけない。分裂や対立を当面無視して、ワンイシューで左翼右翼関係なく集まり、ファシストを罵倒し超圧力をかけて奴らを萎縮させないとなあ。(日本の反ヘイト運動を見聞きして、まさにそう思う。)
<参考エントリー>
ドロレス・イバルリ「奴らを通すな―スペイン市民戦争の背景」(同時代社)

 戦後再建した社民党の問題をみると、当時の「党員」たちの「党派観念(@笠井潔)」の強固さがよくわかる。

笠井潔「テロルの現象学」(ちくま学芸文庫)-3

 著者のように左翼の抵抗を主軸にする考えでは、ナチスへの抵抗は1933年で終わったことになる。そうすると、のちに行われた若者のならず者によるナチスへのカウンターが漏れてしまう。

エーデルワイス海賊団

ja.wikipedia.org白いバラ

ja.wikipedia.org

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 別の見方。

「ドイツが不幸な道を歩むことになった主因のひとつは、第一次大戦後のハイパーインフレーション中産階級が打撃を受け、事実上一掃されて、民主主義の基礎が掘り崩された点にあるとみていた(ヤーギン/スタニスロー「市場対国家 上」(日経ビジネス文庫)P65」

 民主主義や反ファシズム運動の担い手の多くが中産階級なので、この層がなくなったことは有効な対抗運動を作れなかった理由になるだろう。


第2部 カウツキーとカウツキー主義-第1次大戦前のドイツ社会民主党におけるイデオロギーの機能

カウツキー主義の現象 / マルクス主義の限界 / 社会主義者鎮圧法下のドイツ社会民主党イデオロギーにおけるマルクス主義の浸透 / エルフルト綱領とドイツ社会民主党の戦術 / カウツキーの1893年の社会民主党教義問答書 / ベルンシュタインおよび修正主義者との論争の戦術的核心 / イデオロギーと心的傾向(メンタリテート) / 愛党(組織)精神の正当化 / 政治的受動性のイデオロギー的隠蔽 / 結論

 カール・カウツキー(Karl Johann Kautsky, 1854年10月16日 - 1938年10月17日)は、ドイツの政治思想家。若いころエンゲルスと交友を結び「純粋なマルクス主義」の解釈者とされ、長じてはドイツ社会民主党の成立にかかわり、エルンスト綱領を作成。SPDの理論的指導者的な役割になった。ダーウィン主義者として現れそれにマルクス主義を融合しようとした(これは珍しくて、通常マルクス主義者はラマルキズムに親和的)。エンゲルスといっしょにマルクス主義を作ったともされるが、長じてからはベルンシュタインらと修正社会主義を提案(これがSPDの方針になる)。すなわち、マルクス主義から設計主義と革命を除く。代わりに議会主義の合法的戦術をとり、資本主義が没落して労働者が決起するのを期待する待機主義だった。なのでレーニンからは日和見と激しく非難された。カウツキーはWW1のあとSPDから退いたが、運動方針はそのまま引き継がれた。なので、第2部は第1部の前史にあたる。
 橋本努「経済倫理 あなたは、なに主義?」(講談社選書メチエ)で、マルクス主義が設計主義と革命を放棄するとリベラリズムになるといっているが、カウツキーの主張とSPDはその典型。だが、SPDの組織は官僚的で労働組合の支持を必要とするマルクス主義的組織だったので、リベラリズムを展開できなかった。1930年代の労働者の街頭運動で的確な指導ができなかったのも、カウツキーの理論に端を発していそうだ。
 のちのユーロコミュニズムとの関係もなさそう。かつては共産主義の紹介文献で一章を割かれるくらいの人だったが、今は関心を持つ人はいないのではないか。
 

ドロレス・イバルリ「奴らを通すな―スペイン市民戦争の背景」(同時代社) 彼女の演説から『ノー・パサラン』は抵抗運動の鬨の声になった。「ラ・パッショナリア」、情熱と受難を併せ持つ女性。

 2015年の夏、国会議事堂前の安保法制反対街宣で「ノー・パサラン」のコールが起きた。「ノー・パサラン」は「奴らを通すな!」(¡No pasarán!)という意味で、ファシズムに抗する人たちの世界共通のスローガン。20世紀の初めから多くの人が発してきたが、有名なのはスペイン共和国に対する反乱がおきたとき、1936年7月18日にラジオから著者が呼びかけたもの。本書を引用すると

「政府が放送したニュースは、反乱は数箇所ですでに粉砕されているとつたえた。人民は歓喜に酔った。七月十八日の晩、わたしは内務省の無線局から共産党のために放送した。『膝を屈していきるよりは、足で立って死のう! 奴らを通すな!(¡No pasarán!)』/その時以来、『ノー・パサラン』は抵抗運動の鬨の声となった。」(P191)

  堀田善衛「スペイン断章〈上〉歴史の感興 」(岩波新書)によると、この演説を引用したと思われるビラが配布されたという。リンク先を参照。
(ただ、wikiによると「ノー・パサラン」はイバルリ女史以前から使われていたらしい。

ja.wikipedia.org

 
 今ではとくにアンチ=レイシズム、アンチ=ファシズムの共通スローガンとして使われている。)

 さて、この本はドロレス・イバレリの自伝にして、スペイン市民戦争の共和国側の記録。この本から半生をまとめてみると、1895年バスク州ビルバオの鉱夫の娘として生まれる。劣悪な労働環境、慢性的な貧困、義務教育不在などの環境で育つ。20歳で鉱夫と結婚。労働組合運動の活動家だった夫の影響を受けて、マルクス主義関連文献を読み、共産党に入党。
 スペインは昔日の栄光はどこえやら、産業革命に乗り遅れ、市民革命も経験せず、20世紀初頭まで王政。1923年にミゲル・プリモ・デ・リベラ将軍がクーデターを起こし、独裁制に。市民運動を弾圧。第一次大戦後のインフレや労働運動などで国内が混乱し、1931年に選挙によって共和制勢力が伸長し、王室が退位。独裁が終了。新政府は社会労働党が与党になったが、このスペインでは、ほかに共産党(ボリシェヴィズム)やトロツキスト、アナルコ・サンディカリストアナキストなどさまざまな社会主義運動があり、それぞれ多くの支持者を持っていたので、政権は不安定だった。1933年、ファシズムファランヘ党設立。1936年、モロッコフランコ将軍がクーデターを起こし、ファランヘ党と組んで、共和制勢力を攻撃する。共和国側の民兵を組織し、市内戦が開始。1939年、共和国政府が瓦解、主な政治家は亡命するまで、スペイン市民戦争が継続する。フランコは大統領になり、1975年に死去するまで独裁制となる(この時期、ほぼ鎖国状態)。その後立憲君主制になり、民主化が進む。イバルリはモスクワに亡命していたが1977年に帰国し、代議員になる。1989年没。

 イバルリは政府の要請を受けて副大統領になった。なので、本書はスペイン市民戦争を内部から見た貴重な資料である。とはいえ、いくつかのもんだいがあって。
 ひとつは、もともとは自分の覚書として書かれたものなので、とても散漫。事実の列挙がたんたんと続いたり、政府の文書の引用が続いたり、個人的な体験となったりして(でも、婦人刑務所に収監されたり、共産主義者を蛇蝎のようにおもう修道尼とかみ合わない会話をしたりは面白い)、市民戦争の全体を把握するにも、ドキュメンタリーの迫真さを感じるにも、不足している(その点、リード「世界を揺るがした十日間」、スノー「中国の赤い星」はとても面白い)。
 もうひとつは、彼女が共産党(ボリシェヴィズム、レーニン=スターリン主義)の忠実な党員であるので、彼女の見方にバイアスがあること。市民戦争の転換点は1937年のマドリッドの攻防戦と翌年のバルセロナの攻防戦にある。バルセロナではPOUM(マルクス主義統一労働者党)の「裏切り」「反革命」が統一戦線を破壊したと彼女はいう。この都市にはボランティアで共和国側の防衛隊に志願したジョージ・オーウェルがいたが、彼の見聞では共産党がPOUMのメンバーを拘束・逮捕したのであり、過酷な弾圧・拷問が行われたのであった。また、彼女は共和政府の与党である社会党の優柔不断さを厳しく指弾し、それに対して共産党が市民の支持を得ていると強調する(この立場はファシストとの闘争よりも社会党との闘争を優先した戦間期のドイツ共産党を同じ)。このような党派性が強く押し出されているので、読みずらい。
 とはいえ、スペイン市民戦争(および共和制)が負けた/瓦解したのは、政府や市民の問題(統一戦線ができなかった、レジスタンスやゲリラでは軍隊に勝てない、軍を味方にできない、統一した指導部が存在しない、など)もあるが、より重要なのはファシストにはイタリアとドイツの支援があった(新兵器や戦術の実験場にした)のに対し、共和国にはリベラルであるはずのイギリスやフランス、アメリカ政府が冷淡であり、ほぼ無支援であったこと(共和国の兵器買い入れもことわったくらい)。人権尊重や差別撤廃などは、周囲からの監視と支援が必要であることを痛感した。
 ドロレス・イバルリは「ラ・パッショナリア」の異名をもっていて、通常は「情熱の花」とされる。でも、本書中で自身がいっているように、パッションには「情熱」といっしょに、「受難」の意味がある。実際に、イバレリは受難を引き受けた人であった。時間のほぼすべてを政治活動に使い、誹謗中傷や人権侵害は日常茶飯事であり(くわえて女性差別も受ける)、冒険旅行(ファシストの封鎖する国境越えを敢行)をし、軍やファシストの襲撃を恐れて子供をモスクワに送り、市民戦争敗戦後はモスクワに亡命することになる。フランコ独裁中は、共和国側についた人はひとしく厳しい弾圧や処罰を受け、亡命を余儀なくされた人がいたが、その人たちにとってイバレリは希望であったのだろう。

参考エントリー: 
堀田善衛「スペイン断章〈下〉情熱の行方」(岩波新書) 1982年
堀田善衛「バルセローナにて」(集英社文庫) 1989年