odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

ダンテ/野上泰一「神曲物語」(現代教養文庫)-2「浄罪篇」 地球の中心を抜けて魂は天堂に向かうが、肉体や穢れた魂は重力に引っ張られるので上昇できず、高い天に行けない。

2022/07/28 ダンテ/野上泰一「神曲物語」(現代教養文庫)-1「地獄篇」 1300年の続き

 

 ダンテ「神曲」の韻文訳は数種類でていて、古いものはネットで見つけることができる。そういうのをいくつか目を通してみたが、厳密な逐語訳では筋を負うことが難しい。ましてさまざまな固有名(当時実在する人物、歴史上の人物、聖書や神話に登場する人物など)は注釈なしではわからないし、ページを移動するたびに読書の興が妨げられる。そうすると、注釈を本文に組み込んだ散文訳のほうが現代の読者にはありがたい。あいにく本書の野上訳はあまりよくないので、別の試みがあってよい。

2.浄罪篇
 浄罪界に入ったダンテの額に門番が7つのPを刻む。ひとつ円を上るごとに天使がPの文字を消していく。この点は注意していたが、その旨が記載されていたのは一か所だけだったなあ。読み落としたかなあ。

・地獄は闇であったが、浄罪界にくると昼夜が現れる。南半球で太陽の光が届いているからだろう。そこにただひとり現世のものであるダンテがいることに、浄罪界の魂は驚くのであるが、それはダンテには影があるから。

・地獄界や浄罪界が魂に厳しいのは、キリスト教の教義を内面化し実行しているかどうかにある。なので、キリスト教以前に死んだものや善行を積んだ異教徒などは地獄にいる。敬虔なキリスト教徒であっても事故死などで臨終の秘蹟を受けていないものは天国に行けない。現世で資格を取ることは難しいが(俗人は上にあげた以外の悪や不正義をおかしてはならない)、運に左右されるというのは現代人からすると過酷すぎる。当時は事故も神意の表れと思われていたせいだろうが。

・地獄界も天堂界の厳しいヒエラルキーがある。一度ある階層にあてはめられたら、そこから上の階層に上がることはとても難しい。天堂界のヒエラルキーは神の教えの理解や実践によって定められているのだろう。このヒエラルキーは浄罪界が山になっていて、階層を上げるためには厳しい登攀によらなければならない。そのさい肉体や穢れた魂は重力に引っ張られているので、上昇すること自体が困難なのだ。魂は贖罪や悔悟などによって、浄罪界から天堂界に行くことができるが、どの階層に行くかは魂の状態によって決まっていて、おそらく変更できない。

odd-hatch.hatenablog.jp


では地獄のヒエラルキーはどのような権威などによって決まるのだろうか。

・というのは、当時は進化論より前の時代で個が変化するとは考えられていない。宇宙の年齢もせいぜい数千年。時間と空間のとらえ方が違う。「500年」が永遠のように長い時間だった。

 

 以下は中世の身体観。アリストテレスの博物誌はあっても、解剖学や生理学や発生学はない時代。医術は本草学くらいの内容。

純粋な血は、まるで食卓から運びさられる食物のように、人間の四肢に形を与える能力を心臓の中に貯める。それは四肢となるためには、心臓から血管を伝って流れ出るからである。その血はふたたび精製されて男性性器へ下り、その後またそこから婦人の子宮の中の女の血の中にしたたりおちるのである。そこで、二つの血は合し、女性の血は他の力を受ける働きをなし、精液はそのしぼり出された場所が完全であったゆえに、能動的な活動を開始し、まず凝固物をつくるが、つぎに自分を材料として凝り固めたものに生命を与えるのである。
能動的な力はまるで植物の魂のごとき物になるが、その差は、前者がまだ道程にあるのにたいして、後者すなわち植物の魂は、すでに目的地に達したというだけである。前者すなわち人間の魂はさらに活動をつづけ、水母のように運動したり、感じたりできるようになると、自分を種として種々の器官をづくる。自然が四肢を形成しようという意志を蔵した父親の心臓から出た力は、このように胎児の各部分に広がり、各器官にゆき渡る。
胎児の脳組織が完成すると、神は自然のこのような完全な術に満足してその胎児に特別な力にみちた新しい魂を吹きこみたもうのだ。神によってあらたに吹きこまれた新しい魂は、胎児の中で活動中の二つの魂、すなわち植物的魂と動物的魂をともに自己と合一させる。ここにおいて、一つの魂の中に植物的、感覚的、理性的の三性質が備わるので、生き、感じ、反省するのである。
このように人が死ぬと、他の能力は不活発になるが、記憶、洞察、意志の能力は以前よりも活発になる。そして、みずからとどまることなく、魂は奇跡のために、二つの岸の一つに落ち、ここではじめて自分の行くべき道をさとる。さて、一定の場所におちつくやいなや、魂は自分の周囲に形成力を輝かせ、その方法やその程度は人間の肢体が生きていた時と同一である。ところが、たとえば空気が水蒸気を含むとき、それに反映する太陽光線のためにさまざまの色彩で飾られるように、その魂の近くにただよう空気は、その上にとどまる魂が自分の形成能力でその上に捺(お)した形をうけとるのである。そして日が動けばどこへでも炎もその位置を変えるように、空気中の形も魂の後を追って動くのである。さて、魂はこの空中の形から姿を得るので、それは影(オンブラ)と呼ばれ、またすべての器官はそこから、種々の感覚を、そして最後には視覚さえも得るのである。その空中の形のおかげで私たちは話し、また笑うのである。また、それによって涙ぐみ、君が山中で聞いたあの溜息をつくのである。種々の願いやその他の愛情が私たちを感動させるにつれて、影(オンブラ)の像も変わるが、それが君を驚かせること、つまり第六円の魂が痩せていることの原因なのです(25歌)

 

 魂と影が問答するのは、ロマン派の夢想によくでてくるのだが(ニーチェ「人間的な、あまりに人間的な」の漂泊者とその影、シャーミッソー「影をなくした男」、ワイルド「ドリアン・グレイの肖像」などなど)、影に実存イメージをもたせるのはずっと古い時代からあったのだな。

 

ダンテ/野上泰一「神曲物語」(現代教養文庫
https://amzn.to/495fRVi
https://amzn.to/3ur75SA

 

2022/07/25 ダンテ/野上泰一「神曲物語」(現代教養文庫)-3「天堂篇」 1300年に続く

 

 以下はトリビア。映画「薔薇の名前」で図書室で迷ったアドソは適当に手にした本を読むが、人体の変化を神学で説明するものだった。

 

ダンテ/野上泰一「神曲物語」(現代教養文庫)-3「天堂篇」 10の天からなる天堂界はプトレマイオスの宇宙。神は他から動かされず、他を動かし、愛と望みを持つから信仰を持たなければならない。

2022/07/28 ダンテ/野上泰一「神曲物語」(現代教養文庫)-1「地獄篇」 1300年
2022/07/26 ダンテ/野上泰一「神曲物語」(現代教養文庫)-2「浄罪篇」 1300年の続き

 ヴィルジリオの案内で行く地獄と煉獄では、多くの障害があり、あるいはダンテの知り合いと問答を交わしたりと、冒険があった。しかし天堂に入ると、すでに重力の桎梏を脱してしまったダンテはベアトリーチェとともにゆっくりと上昇するだけなのである。新旧の聖書にでてくる天使や聖徒らがダンテに問答を試みるが、ダンテは正答を連発し、もはや何も起こらない。なにしろ、天堂は重力はもはや働かず、聖徒等は疲労することがなく、天使らは飛翔して輪舞し、合唱にいそしむ(流れているのはグレゴリオ聖歌だろう)。もはや魂は労働も仕事もすることはない。中世のユートピアがここに現れている(刺激と娯楽のない世界は近代・現代人には退屈だろう)。

荒俣宏/金子務「アインシュタインの天使」(哲学書房)から

 天堂は10の天に分かれている。月天-水星天-金星天-太陽天-火星天-木星天-土星天-恒星天-原動天-至高天と続く。このヒエラルキープトレマイオス宇宙論そのままであるだろう。

太陽は人間のために、さまざまの地平線から出るが、それが四つの圏があつまって、三つの十文字をかたちづくる場所から昇ると、最良の道を通って白羊宮を伴い、その熱と光で地球へ影響を与える。いま浄罪界を朝とし、地球を夕方としている太陽もこのような地平線からったのである。さて、反射光線というものは投射光線から出て反転してふたたび天に向かうものだが、その早いことといったら、まるで家路を急ぐ旅人そっくりである。(略)万物はその間に秩序をもっているが、それは宇宙を神に似させる形式なのである。宇宙の秩序の最終目的は神に向かうことである。そして神の刻印をその事実の中に発見する。自然のすべての物は、それが神に近いか遠いかにしたがって、さまざまの段階をもってそのような秩序と一致している。それゆえ、みな自分の受けている本能にしたがって、存在の大海を渡って多くの異なる港に向かうのである(第1歌)

 

内容とともに、それらの秩序と構造もつくられ、宇宙のいちばん高いところには、純粋な作用をなす者すなわち天使が置かれ、純粋な潜勢力を有する者すなわち物質はもっとも低いところへ置かれ、中間の位置には、天使と物質を結ぶ諸天が置かれたのである。(第29歌)

 このような宇宙観はその後数百年継続する。たとえば、この本に引き継がれている。

odd-hatch.hatenablog.jp


 下記によると、原動天(始原天と訳すこともあるらしい)はゼンマイ仕掛けで天界を動かしているのだそうだ。本書中でも、天の動きを時計に例えることがあった。

odd-hatch.hatenablog.jp


 このような構造は当然神の意志に基づくもの。神の意志は光として現れ、周囲が明るくなる(炎や火花が飛ぶ。ベートーヴェン交響曲を書いたシラーの詩を思い出すこと)が、それを人間は神を見る能力すなわち視力(科学で測定できるものとは別)を獲得していくのだ。そこにいくには地獄や浄罪界でみたような悪や不正義をしてはならず、神を愛する力を高めなければならない。そのような叡智を授かったものはおのずと光を発するのであり、ダンテに知恵を授けるものはみな光り輝く(階位の低いものはくすんでいたりなにか色が混ざっていたり)。これは現実の闇や地獄の暗さとの対比で絶大な効果をもたらすだろう。ダンテ当時のゴシック建築の教会は高い天井はできても小さな窓しか作れないので、会堂の中はうす暗い(その代わりステンドグラスはとても効果的・印象的)。教会の高所に設けられた合唱隊の入るバルコニーから聞こえるハーモニーは、反響と共鳴でこれもまた世の中では決して聞こえない音楽の比類ない美しさをもたらした。
 神をなぜ信仰しなければいけないかというと、神は1.他より動かされない、2.すべてのもとを動かす、3.愛と望みと持つからである(くわえると、正義と善を判別する根源であることも重要)。ダンテの神学では神は動因と倫理が重要で、創造はあまり重視されない。なにしろ、アダモ(アダム)が生い立ちを説明するに際し、

ベアトリーチェがヴィルジリオを出発させた辺獄で、太陽が四千三百二回回るあいだ、私はここへ来るのを待っていたのだ(26歌)

 すなわち天地創造から4300年ほどしかたっていないことになる。前の感想でもいったように、この時間でも当時にはとてつもなく長い永遠だったのだ。
 通常、地獄界、浄罪界、天堂界にいくには肉体を捨てて(なにしろ重量の影響を受けて昇る妨げになるのだ)、魂だけにならなければならない。でもダンテは肉体を持ったままこれらの界を歴訪する。当然そこには神の意図があり、下界で他人の心を強くするという使命を与えられたのだ。神はそのようにいわないが、天使や聖徒らはフィレンツェの堕落を憂いているし、ふさわしくない聖職者がたくさんいるのを問題視している。1300年当時はローマ教会の異端審問が盛んにおこなわれていた時期だった。カタリ派やアルビジョア派には十字軍が送られ異端教徒の大殺戮が行われていた。また教会内部の改革運動も行われていた。天堂篇にはフランチェスコ会1209年結成とドメニコ会1206年結成が言及され、彼らの運動の賛美と批判が天堂篇で行われているのでもあった。現世の問題が神に届いていたのか、ダンテの使命は聖なるものだけではなく、政治的な動きをすることも期待されていたのだろう。
2022/08/26 堀田善衛「路上の人」(新潮文庫)-1 1985年
2022/08/25 堀田善衛「路上の人」(新潮文庫)-2 1985年

 

ダンテ/野上泰一「神曲物語」(現代教養文庫
https://amzn.to/495fRVi
https://amzn.to/3ur75SA

 

 というわけで30年前に読んだときはちんぷんかんぷんだった「神曲」も多少は知識を動員してなにか言っているフリができるまでになった。ダンテの想像力や教義の解釈よりも、科学以前の自然認識や宇宙論に関心を持つような読み方になった。上に書いたように、労働や仕事から解放されているとはいえ、娯楽はなく、きわめて権威主義的なヒエラルキーの強い世界(構成員が協同する社会はない)は近代・現代人には居心地がわるそう。

 

 

イタロ・カルヴィーノ「くもの巣の小道」(福武文庫) 北イタリアのパルチザン活動。戦時を日常になると、人は疲弊し人間の弱点を露わにして分断を強める。

 イタロ・カルヴィーノの最初の長編小説。カルヴィーノパルチザンに加わっていたし、WW2戦後にはイタリアで「レジスタンス小説」が多数出版されたそうだ。その時流に乗っていながら、ズレたところのある小説。

 おそらく1944年夏の北イタリア(具体的な年月や地名は書かれていない)。たぶんムッソリーニは首相を下りている。そのためにドイツ軍がイタリアの大中都市に進出して、新独政権といっしょに治安を担当している。ドイツ軍の徴発やスパイ摘発などに怒る人々や収容所を脱走した者たちなどは、自発的に組織化して対独の抵抗組織を作った。武器を持ちゲリラを行うし、ときにはどこにあるのか本書ではわからないパルチザンの統括組織からの指令で一斉蜂起を行うこともある。ドイツ軍に見つかれば、拷問され、銃殺されるのであり、しかしそこから脱走する者も時にはいる(ドイツ兵は土地勘がないし住民他の消極的抵抗で見つからないこともある)。
 さて、大人びた少年(ティーンにはなっていないのじゃないかな)ピンは、ドイツ兵からピストル(P38というからルパン三世が持っているものだな)を奪う。それを誰もいかない荒野に埋め、そこを「くもの巣」と名付けていた。逮捕されたとき、パルチザンの青年と知り合いになり、彼の脱走の駒に使われる。一緒に逃げ出して、パルチザンの仲間にはいる。当然武器など渡されないし、雑用ばかりを言いつけられる。ピンは大人に従うのではなく、トリックスターのように悪態をつき、秘密を握り、逃げ回りながら部隊の外に出ることはない。
 このパルチザン、出自がさまざまで共産主義を信奉する革命志向のものもいれば、ドイツ軍のやり口に怒っているだけの理由で加わるものもいれば、居場所をなくして流れ流れているうちになんとなく加わったものもいれば、武器愛好を満足するために黒シャツ旅団(ファシスト団体)にいたのが裏切ってパルチザンにいるものもいる。なにしろ隊長自体が長年のゲリラ活動で疲れ切り、投げやりになっているという次第。俺らとしては、スペイン市民戦争の義勇兵や中国の八路軍のような統制と規律の集団を期待したいところだが、そんなものはない。途中で一斉抵抗の作戦を伝えるために旅団長と政治委員がやってくる。彼らはパルチザンの在り方を議論する。旅団長はボルシェヴィキのような革命家集団にしたいと啓蒙と教育の重要性を説くが、インテリ志願兵の政治委員は無駄だという。参加の動機や出自の異なる人々がパルチザンに結集するのは屈辱からの抵抗、祖国防衛の意識だけで、それ以外に共通点のないものをイデオロギーでまとめる必要はないと。発表の1947年にはレーニン主義の主張のほうが強かったので、政治委員のように考える人はほとんどいなかった。それから75年もたつと政治委員の考えを書いたカルヴィーノの先見性に驚く。
 またレジスタンス小説にありがちなカタルシスがこの小説にはない。後半に書かれたドイツ軍への大規模反攻はピンがパルチザンのアジトから抜けたことで書かれない。ドイツ軍協力者が懲らしめられるシーンもない。アメリカ軍などの解放勢力の情報はいっさいない。なにより、学校が閉鎖されほとんどの人が仕事をしていない「戦時」がこの後も継続し、キャラたちはいつまでも戦っていかなければならないと思わせる。前のパルチザンの閉塞状況もあって、このレジスタンスはきついままに置かれている。
レジスタンスや蜂起は英雄性をみせるところではあるが、むしろ人間の弱点を露わにして分断を強めることになる。なにしろ人を殺したり、疑ったり、地元の施設や公共財を破壊することは強いストレスになる。なのでないに越したことはないし、あっても早期に終結させるべきもの。戦時を日常にするとか、後の人が戦時を生きた人をナショナリズム強化に使ったりするのは避けないといけないし、そのような言説には警戒しないと。その点カルヴィーノのこの小説は戦時の賛美には使えない。サルトル「壁」シムノン「雪は汚れていた」ヴェルコール「海の沈黙・星への歩み」ユリウス・フチーク「絞首台からのレポート」コスモデミヤンスカヤ「ゾーヤとシューラ」とは違う立ち位置にいる。また日本にはこういうレジスタンス小説はない。兵士体験か収容所体験、銃後の戦時下の日常を描いたものばかり。レジスタンスや抵抗の経験の乏しさを反映している。たぶん在日文学にはそれがあるはず。)
 とはいえ、小説は明るくもあるのは、大人びた少年ピンの存在のまぶしさにある。大人の言うことをよく聞くよいこではなく、まわりにいじ(め)られる暗い子供でもない。大人をからかい、過去に拘泥せず将来に思い煩うことのすくない彼のキャラは戦時下においては明るさを示す。
<参考エントリー>
イエールジ・コジンスキー「異端の鳥」(角川文庫)

odd-hatch.hatenablog.jp

 

イタロ・カルヴィーノ「くもの巣の小道」(福武文庫)→ https://amzn.to/3UR7nge
イタロ・カルヴィーノ「マルコヴァルドさんの四季」(岩波少年文庫)→https://amzn.to/3T8BCya
イタロ・カルヴィーノ「むずかしい愛」(岩波文庫)→ https://amzn.to/49FRmhm
イタロ・カルヴィーノ「レ・コスミコミケ」(ハヤカワ文庫)→ https://amzn.to/49I5l6j https://amzn.to/49Ggq83
イタロ・カルヴィーノ「柔らかい月」(ハヤカワ文庫)→ https://amzn.to/4bImCy7
イタロ・カルヴィーノ「パロマー」(岩波文庫)→ https://amzn.to/4bImwXh

イタロ・カルヴィーノ「マルコ・ポーロの見えない都市」(河出書房新社)→ https://amzn.to/3UORqap


 「くもの巣」はピンがピストルを隠した荒野であり、人が行かないきれいな場所のシンボル。ピンがこの場所を繰り返し思いだせるのが、戦時下の「遊びと人生」しかない暮らしで平静を保つ技術なのだろう。現在は過酷であっても、想像でそこに逃げることができるからね。最終章で「くもの巣」は荒らされているのが分かったが、ピストルをとりもどせたので、「くもの巣」は荒地からピストルに変わったのだろう。そのあと、ピンは自分で道を歩くようになった。(でも、戦時下が終わった後、社会に適応できるか不安)。

odd-hatch.hatenablog.jp