巻末に横溝正史の翻訳リストが載っていて、新青年の編集長時代から昭和15年ころまでに長編・短編を多く訳している。ほとんどは短編だが、そのうちの本格探偵小説長編を収録したのが本書。まこと明治生まれのインテリは英語を独習し、翻訳できるほどに堪能だったわけだ。しかも、横を縦にするだけの味気ないものではなく、それぞれの長編の作風にあわせた文体も作っていて見事。どこまで正確かはわからないにしても(たぶん、鍾乳洞内の描写は筆に踊った訳者の文章もあると思う)。
鍾乳洞殺人事件1934 ・・・ 原著の出版年は1934年で、翻訳は昭和7年(1932)に行われているので、訳者は雑誌掲載のものを使ったのかしら。作者はケネス・デュエイン・ウィップル。無名でたぶん翻訳はこの一冊だけではないかな。アメリカ南部で鍾乳洞を観光地化する計画があり地質学者が秘書とともに呼ばれた。そのうわさを聞きつけてか、新聞記者・オールドミス・新婚夫婦などが見物に訪れる。鍾乳洞の持ち主は隣家の別の鍾乳洞もちから売却を持ちかけられているが、頑強に断っている。また有名女優もお忍びで訪れて早速若い男をからかっている。さて、鍾乳洞見物の初日に、持ち主が殺され、翌日女優が殺される。嫌疑は隣家の男にかかり、アリバイがわかると、鍾乳洞の発見者の偏屈男にかかり、その次に新聞記者へと。奇妙なことに、集まった連中はそれぞれ過去において鍾乳洞の二人の持ち主と何かの関係をもっていたのである。さらに、刑務所を脱獄した男が鍾乳洞に隠れているのが見つかるなど、関係者には不可解なことが次々と発覚する。この作の特徴は、不可能犯罪趣味(鍾乳洞の中の殺人は関係者がいたのに目撃情報がない)、次々に事件を起こしていくスピード感、全体に漂うユーモア(探偵役の地質学者のひょうひょうとした雰囲気もさることながら、口うるさいオールドミス、権柄ずくだが仕事は甘々の警部らが印象深い)など。
関係者はそれぞれの思惑で勝手に行動しているので、その意図が見えなくなってしまった。それに最初の被害者の関係するものの思惑がいろいろあって、動機が見えにくくなっている。そのあたりがこの作者のうまいところだけど、伏線の貼り方と解決の論理はさほどうまくなく、殺人方法に特色がないのが減点されるところ。なにしろ同じ年にクイーンやヴァン・ダインの名作が次々に登場していたから影が薄くなるのも無理はない。1920年代初めだったら、もう少し評価が高くなったかも。
あと、語り手が若い(といっても27歳)女性であること。この無垢でナイーブな女性が記述することで見聞きしたことはほぼ正確。その点では安心できる。その代わり、人間観察がすぐれているわけではないので、内面を忖度することはない。読者は外見だけから人物の意図を読むことになる。そこには作者が隠していることがたくさんあるのだが、それを納得させるのが書き手のナイーブさにあるわけだ。ここらはこの国の1980年代以降の「新本格」の書き手が使っている方法と同じ。それでいてずっと早い。
そういう普通作だが、読ませるのは横溝御大の筆になるという点。なるほど、鍾乳洞は作者の好きな場所であって、「八つ墓村」「女王蜂」「迷路荘の惨劇」など舞台となった作は事欠かない。とりわけ、「八つ墓村」には登場人物にこの作品を思いださせるシーンがあるとなると、執筆当時の作者が若いころを思い出したのか。ウィップルの鍾乳洞は閉塞感と絶望のたまるところではなくて、地下に財宝を持ちそこを訪れることによって叡智を得る場所であった。そういう地下の迷宮の豊饒さは訳者の別の仕事の道しるべになったのだろう。
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