「宝島」「ジキル博士とハイド氏」などで知られていたロバァト・ルゥイス・スティヴンスン(本書の表記)は、35歳(1884年)に肺結核で最初の吐血。以来、イギリスを離れて療養に努めてきたが、身体に合う土地は見つからず、1889年になってようやくサモア島に落ち着いた。そこで加療と執筆に励むつもりであったが、生活と政治がそれを許さず、さらに芸術と生活のはざまで思いまどうのである。三人称の無名氏の報告が途中にあるなか、ほとんどはスティヴンスンの日記である。およそ5年間の記録は、この「二流作家」の心象を詳細に描く。
著者の中国以外を書いた小説で感じた曖昧さは姿を消し、逡巡や拘泥を持つことなく、明晰に物事を判断し、行動もする。俄然、著者の技術と方法は新局面を開いたかと思いたくなるのであるが、そういう喜びには遠い。この明晰さは主人公をイギリス(スコットランド)出身の男にしたのと、定職をもっているところからうまれている。そのうえ、この主人公は西洋人の皮をかぶった日本人であって、日本人の物事の見方がサモア島の政治状況を見誤らせるバイアスを持っているのだ。
小説の記述をそのまま信用すれば、1890年前後にサモア島はイギリス、アメリカ、ドイツの領主が実権を握っている。植民地経営による搾取の苛烈に耐え兼ね、首長はイギリスに統治を依頼する計画を立てたが、ドイツが横やりを入れ副王に肩入れして、内戦状態をつくりだした。スティヴンソンはいずれにも加担しない公平な第三者であろうとして、政治的な寝技を使えないにも関わらず、領主の間を歩き回り、平和の解決を模索する。スティヴンソンのこの行動はいずれかの国家の関与に加担しないように見える。しかし、民族的な自立も提案できず(自治能力のないことは発覚している)、英米独のいずれもサモアの未来に関与しないのであるとすると、執筆時の情勢からは日本の関与ということになるだろう。サモア人たちに対する民族的な蔑視は隠しようがない。この小説のサモア島自治の論理は当時の日本の南洋政策を代弁するもの(細かい検証はしていないが、きっとどこかに論文があるだろう)。
スティヴンソンの経歴が書かれている。親との関係はうまくいかず、年上の女性と結婚して仕事をコントロールされ、肺結核の病状は死に親近感を持たせる。都会や文明や技術には背を向け、自然への思慕を持つ。世間や社会からはみ出し、よそものの意識をつねにもち、しかし創作に固執する。ここらは昭和の文学者のルサンチマンに重なる。スティヴンソンは日記で創作に関する考えごとや悩み事を書く。それは当時の日本の文学や文芸評論の問題に重なるのではないかな。いくつかの主題を抜き出すと、知識人のエリート意識と大衆からの疎外、労働と文学の価値の優劣(労働が重要)、生活が充実していない作家の作品に価値があるか、文学(ノヴェル)と物語(ストーリー)の比較。ストーリーしか書けない自分の価値、ノヴェルで重要とされる告白とリアリズムの意味、など。こうして抜き出すと、昭和の文学の問題を棚卸しているようだな。スティヴンソンは創作家としてもよそものの二流であるという意識があり、そこに矜持もあるし、コンプレックスもある。生活人としても他人の助力を必要とし、しかし他人の敬意を必要とする。このような問題の立て方も日本人的。
著者は戦中に南島に行った。第1次世界大戦でドイツの植民地だった南島を併合し、ビザなしで行けるようになり、日本には南方パラダイスのイメージ(荒俣宏「楽園考古学」とか「南方に死す」、「異都発掘」など)があった。日頃の抑圧から解放される自然や原初のイメージをもっていた(カルピスの古い商標が典型)。そこには異民族、ことに近代国家を持っていない民族への蔑視も含まれていて、南洋のイメージには注意が必要になる。そのようないびつな運動のさなかに書かれたこの小説には、社会や作家のバイアスがたぶんに含まれ、当時の日本の南洋政策を肯定する記述もあり、俺は冷静に読めなかった。
たぶん著者の新境地を開いたものであるのだろうが、それを読み取れるような読書にならなかった。ただ、文章は見事で、開高健が「風に訊け」で、日本の文学者で文体を持っているのは中島敦・梶井基次郎・井伏鱒二といっていたが、納得した。
生前に発表された最後の作品のひとつ(1942年)。同年、気管支喘息で死去。享年33歳。
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