odd_hatchの読書ノート

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中島敦「李陵・山月記」(新潮文庫)-2

2019/01/21 中島敦「李陵・山月記」(新潮文庫)-1 1942年

 

盈虚 1942.07 ・・・ この難しい字は「盈虚(えいきょ)」と読み、 満ちることと空っぽのことから繁栄と衰退、また月の満ち欠けのことという。さて、紀元前5-6世紀の春秋か戦国の時代。親によって放擲された息子、十数年後に国の太子となってもどる。若い時分は国政や経済に理想をもっていたが、幾星霜の苦労は自分の欲望の満足を満たすことにのみ溺れ、政治をないがしろにして、酒色と賭博に打ち込み、人の妻を横奪し、一羽の雉に情愛を注ぐ。ついには謀反が起き、国境に逃げる羽目に陥る。そこで出会ったのは・・・。故事の現代的書き直しで、とくに心に残るところはないが、書かれた時代を見ると、当時の政治家や軍人へのあてこすりともみられるか。

名人伝 1942.12 ・・・ 弓の名人になりたいと思った青年、特訓に特訓を重ねて、ついに師匠を超える。継ぐべき技の無くなった師匠は山にいる伝説の名人を訪ねろと命ず。白髪白髭の老人、「おまえのは射之射。修行が足りん。不射之射こそ理想」といい、青年は九年の修行を積む。山を下りたとき、彼は弓を手にすることがない。このあいまいきわまりない話からなにか教訓を得るのは止める。ボルヘスのような決定不可能な迷宮にはいって、どうどうめぐりの考えを凝らすにしかざるはなし。

斗南先生 1942.07 ・・・ 学生の三造くん(22歳、昭和7年1932年)の回想。一生独身で、無職、他人の支援で生きてきた伯父。気性は癇癪持ち、世を罵り人を罵り、実現されない夢をみている。体調が悪くなり大山に登り、大阪に戻る、東京の病院に入ると、思い付きの行動に三造くんは振り回される。末期の癌で死亡。伯父は自分に似ていると言われたので、自分と比較してみる。三造くん(のちの「狼疾記」の主人公。「悟浄出世」「悟浄歎異」の三蔵由来かも)の自己省察の記録。22歳というのに恋愛でなく、老人の死を記録するというのは若者の「ぼっち」によくあることか(俺がそうだった)。

狼疾記 1942.11 ・・・ 三造という20代の女学校講師がいる。友人がなく仕事に不熱心で、問うて何かするわけでもなく、本を読んで語学を勉強したスノッブが世界への疎外感や違和感、死後の永遠の恐怖、言葉と物の乖離、存在の無根拠性などの感想をだらだらと綴る。自己をちっぽけなものと認識する一方で、<この私>の生死が最優先課題であるという矛盾を矛盾と感じない卑小さと尊大さがあり、他人の生活の充実ぶりを嫌悪する一方でなにもしていない自分の承認を強く欲求する。まあ、よくいえばドスト氏の「地下生活者の手記」第1部の本邦版。あいにく30代になったばかりの著者には恐怖や不安を思想に高めるには経験と時間がたりなかった。中国古典を題材にした小説の明晰さが現代小説になるとあいまい朦朧としたものになるという不思議。

李陵 1943.07 ・・・ 漢の武帝の時代。北方匈奴の勢いが強まったので、李陵が将軍となって兵五千とでる。奮戦するうち、兵の大半が失われ、李陵は昏倒して捕虜となる。その報を聞いた武帝は一族の罪とみなし死を送る。それをいさめたのは司馬遷。これも武帝の怒りを買い、宦刑となる。生き延びた李陵は匈奴の王・単于と親しくなるも、同じく捕らえられた蘇武の頑固さに胸が冷える思いがする。異邦の地にあること十数年、武帝の死により恩赦がで、李陵は妻子を持っているゆえに漢に戻らず、頑固な蘇武は漢に帰る。同じころ、司馬遷史記五十数万字を脱稿する。権力から弾圧を受けた人々の三者三様の対応。それぞれが刑罰を受けたのであるが、異国に順応・仕事に熱中・転向拒否といえるか。それぞれの煩悶、苦悩、逡巡の描写は見事。書かれた時代を見るとき、匈奴という辺境の「蛮族」にも礼儀があり、環境に適応した優れた技術があり、文化が花開いてあるという記述は重要。まさにこの時代に世界の中心と誤解した日本は小説の漢となって、匈奴たる中国に攻め入っていたから。この国の軍隊の高官や将軍は李陵のごとくにはならなかったが、一般兵士には彼の地に永住したひとがでていた。あるいは獄中の共産党員のいくばくかは蘇武のように転向を拒否していたのでもあった。書かれた時代と重ね合わせて読みたい、参考は 武田泰淳「司馬遷」(講談社文庫)1943年。

弟子 1943.12 ・・・ 孔子集団の一代記。とくに一番弟子の子路に注目。彼の眼から見ると、孔子は「この人はどこに持って行っても大丈夫な人だ」という評になる。この簡潔にして明晰な一句はみごと。「大丈夫」という生活の言葉に深い意味を持たせることに成功。さて、小説はというと特に何も言うことはない。孔子というメンターがさまざまな弟子を持ちながら、意図を伝わらせることができず、弟子が困惑するのが繰り返される。たぶん人は孔子の言行をみて弟子を個々に評価するのであろうが、俺には興味はない。孔子が集団を率いるにあたり、ミッションやビジョンを明確にせず、弟子とのコミュニケーションに失敗し、適材適所の人材マネジメントをおざなりにしているのに、目がついて。あと、メンターと弟子の意志疎通の失敗というテーマで、ほぼ同時期の太宰治「駈込み訴え」を思い出した。


 こちらでは危ういところ。
 他人の言行になると観察や批評が的確に行われていくのに、こと<この私>になると途端に鈍る。「悟浄歎異」「斗南先生」「狼疾記」など。行動者でないことに卑屈を感じて、他人の行動力に羨望する。でも<この私>は行動できない/しないものだから、行動するものに羨望を感じる。そういう精神の運動が続くものだから、<この私>のことになるとバイアスがかかって、観察や調節がうまく働かない。(このあたりの記述は自分にそっくりだから、書かれてあることに共感するけど、とてもはがゆい)。
 それはこの時代にはめずらしい文化的相対主義を持っているところから発生しているのかもしれない。「悟浄出世」でさまざまな思想や主義の博物学を行い。それぞれを批判するまではできる。でもその先の確固たるもの、確からしいことを提起することができない。さまざまな思想や主義のあいだをふらふらして、どれにもなじめないし、弱点や欠点を指摘できても、その先どうするのが答えられない。たぶんそれはこの人が「生活」「仕事」(@アーレント)をもってはいても、活動をもっていないから。あるいは書斎と書物の中にいるから(まあ時代からすると、その戦略は「あり」なのではあった。ちょうど李陵が単于の保護下にあるように)。
 この人の夭逝は残念ではある。でも、敗戦後になって、戦後文学者のような仕事をすることができたかというと、どうだろう。文化的相対主義は戦時中の全体主義植民地主義の欠点を指摘することができる(「李陵」「虎狩」)が、抑圧の組織が無くなったあと、何か声を発することができたかなあ。坂口安吾のような強い声や椎名麟三みたいなか細い声をだせたかしら(「悟浄歎異」の逡巡になってしまうのではと思う)。