感想を書く気が重い。この時期(2008年)では、イスラム過激派のテロに重ねて考えることになるだろうし、ドスト氏の「悪霊」に重ねた政治テロの系譜も興味深いし、なにより自分の命を捨てて他数の命を救うために権力者を殺害することの是非(ないし自分の態度)を検討することにもなりそうだし。それらになんらかの意見を持っていないから、どうしてもここでは皮相的な見解になってしまう。
1.主人公の一人は、当時17歳の少年。厳格な父、優秀な兄との比較、その他いろいろな心情があったのか、高校を退学し、政治団体に所属。合宿生活をしながらも、脱党し、社会党の書記長を演説中に刺殺するというテロを起こす。この演説会はテレビの中継が入っていたために、TVの視聴者が事件を映像で目撃することになった。
2.笠井潔「テロルの現象学」を勝手に使うと、この人物は自己観念の肥大化と世界認識の不統一、こんなところからテロルという行動を選択したのかもしれない。そう考えると、このテロルという事件を「政治」「党」などというところからはとらえきれない。あるいは、「戦争の経済学」の費用便益分析を使って、自分という個体の価値よりも観念や組織の価値が重要であり、個体の価値を高める手段がないとき、テロルを実行する意識になるという説明もありうるかもしれない。どうもこの少年にこれらの説明や分析を当てはめるのが難しい。
かつてはこの本に書かれた少年のいらだちや孤独に共感を覚えることができたように思う。現在の年齢で読むと、理解不能の不思議な人間、危険な未成年というふうになってしまった。彼は思想をもって政治テロルをしたのだろうけど、西暦2000年になって増えた(ように見える)路上の無差別殺人の犯人に似ているような感じがするのだ。彼らの口にする「人を殺したかった。だれでもよかった」と、たまたま目についた社会党委員長に体当たりすることとの差異が自分にはよくわからない。
この2つをいっしょにしたのは乱暴だったかもしれない。そこで、いずれの動機も自分にとっては「不気味」(気を味わうことができない)であると言い換えることにしておく。
3.もう一人の主人公は浅沼稲次郎。彼の人生は、テロルの被害者であるということだけで記憶されている。ところが彼は、戦前の無産者運動に深くかかわっていたので、彼の経歴を負うことは大正の終わりから昭和前半の労働運動史を知ることになる。というわけで、この本に書かれていることは、安東仁兵衛「日本共産党私記」や立花隆「日本共産党の研究」、逆の立場から見ると松本清張「昭和史発掘」を補完する資料になる。また堺利彦や荒畑寒村、幸徳秋水、山川均を引き継ぐ次の世代を知ることになる。あとは、戦前戦後の共産党シンパを描いた武田泰淳「快楽」、野間宏「暗い絵」、埴谷雄高「死霊」、堀田善衛「奇妙な青春」なんかを読む手がかりになり、プロレタリア文学を読むときにも参考になる。
4.あと、これは「私」のいないノンフィクションであること。私=取材者の存在を記述しないことによって、客観性を獲得することに成功したのか、それとも「歴史小説」の境界に侵犯しているのか。ところどころにある人物評は、作者のものなのか、定説になったものであるのか。どこが個人の意見なのか、あるいは歴史やジャーナリズムの定説になっているのか。とりあえず「ノンフィクション」に分類されているからそれらの問いを無効にしているのか。(「小説」として発表されたカポーティ「冷血」との違いはどこだろう。)
2017/02/06 大江健三郎「セヴンティーン」「政治少年死す」-1 1961年
2017/02/03 大江健三郎「セヴンティーン」「政治少年死す」-2 1961年