odd_hatchの読書ノート

エントリーは3200を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2024/11/5

斎藤惇夫「グリックの冒険」(講談社文庫)

「飼いリスのグリックは,ある日,北の森で生き生きと暮らす野生リスの話を聞き,燃えるようなあこがれをいだきます.カゴから脱走したグリックは,ガンバに助けられ,動物園で知りあった雌リスののんのんといっしょに,冬の近い北の森をめざします….日本児童文学者協会新人賞を受賞した,愛と冒険のファンタジー.」


 1970年初出のファンタジー。剛球一本、変化球はない、つねに勝負をするという剛毅なもの。なにしろここには、魔法はない、先祖から伝達された秘法はない、霊界と同期する選抜された能力はない、呪文と護法でもって回避できる危機はないし、隠された闇の力もなければ、選ばれたものにだけ使える魔力もない。試練に対し使えるものは己が体力と知恵のみ。しかし、ようやく成人になるかならぬかの少年にとって、あらゆる状況はすべてはじめての体験であり、寄り添うのは自分よりはるかに弱い子供のみ。こういう状況を克服する意思は単に見も知らぬ「生まれた森」に帰るというロマンティズムしかない。そこにおいて子供はいかに冒険において自己を変容することができるのか。語りのおいて作者はちらりとも姿を見せず、危機において突然現れるデウス・エキス・マキナもない。体力と気力を回復して、再び旅に出ることしか彼らにできることはないのだ。旅の後半においては終着点に到達することはもはや目的ではなく、冒険すること・旅をすること自身が目的であり(こういう意識は本書中で語られる)、そこにおいて自己を変容することそして自己と寸分たがわない他者=あなたを発見することが目的であるのかもしれない。
 興奮する前にもう一度状況を確認しておこう。ペットショップで買われたシマリス・グリックとフラックの姉弟(本物の血縁関係にあるかはわからない)は、一軒家の応接室を子供の時期に世界のすべてとおもっていたのだが、夏の終わりに旅行鳩ピッポーの語りによってシマリスのすむ北の森があることを知る。それは甘美な幻想と理想の場所で、グリックは壁と天井にかこまれた世界に留まることができない。それを察知したフラックは夏の終わりの日に、グリックの尻を押して、北の森へ行けと命じる。嵐の夜に出帆したグリックは、ドブネズミ・ガンバを助け、ドブネズミとクマネズミの戦いに巻き込まれる。辛勝した後、グリックはガンバにつれられてガンバの考える「森」に案内されるがそこは「動物園」であった。たしかにそこは一軒家の応接室よりは広く、食べ物に不自由はしないが、檻に囲まれていることには違いはない。しばらくは「冒険」の語り部として安住していたグリックではあったが、あるとき鋭い声で「あなたの冒険の話はどこにあるの」と詰問され、動物園を去る決心をつける。
 翌日、彼の見出したものは足の悪いシマリス・のんのんであった。グリックは同行を拒否するものの、ネコに襲われるのんのんを救出し、彼をせきたてた叫びをたてたものがのんのんであるとことを知り、彼女との冒険を実行することになる。彼らを襲うものは猫、ノスリハヤブサなどであり、なによりも雨に嵐に洪水、寒さという自然そのものであった。紆余曲折は彼らの時間を奪い、北の森を見出したとき、深い秋は最初の雪を降らすのであった。そして、空腹と寒さのなか、北の森を目指す、山登りが始まる。いよいよいけないというときに、のんのんがグリックに話したのは、彼女は北の森を出自とする母をもち、グリックに先駆けて動物園を脱出しようとするときに、動物園に住む者によって制裁をうけ、足を悪くするということであった。そして、深い雪のなか、ついに彼らはもう動けなくなる。そのとき彼らの前に現れたのは・・・
 典型的なロマンティズムの話。「北の森」というのは存在は知れてはいるものの、どのような現実であるかはわからないまま、それは達成するべき目標、実現するべきユートピア、地上の楽園となる。あとはこのような観念にとりつかれたまま、さまざまな危機を乗り越えていく、そのような人生の闘争こそが美しいというのであった。これはまさに1960年代の共同幻想であったにちがいない。その当時の人びとの共感(中学生か小学生としての自分もこの話に強い感銘を受けたのだった)は、物語そのものの力強さと同時に、グリックとのんのんの不屈の意思に対して向けられていたにちがいない。
 そして、少年で世間知らずのまま社会、世界に飛び込んだグリックが自身の欲望に従順に行動し、発言することによって、伴侶を得て、しかも冒険を達成することにも共感と、自己同一化を見出したにちがいない。一応指摘しておくとグリックはクマネズミとの戦争で尻尾の一部をかじりとられ、のんのん(ちなみに地方によっては女性性器の呼び方と一緒)は足が悪いという聖痕(スティグマ)を持つことになる。周囲と異なる異相を持つことで、彼らは主人公として選ばれたものなのである。
 剛球は見事に読者の胸を打つ。グリックとのんのんの冒険が佳境に入り、試練がさらに厳しいものになるとき、読者は読むことがそのまま彼らの試練に重なるのを得心するであろう。そして、疲労の果てに聖杯を見出した時、深い安堵と高揚をかんじているはずだ。
 このファンタジーの挿絵は藪内正幸が書いている。これがすばらしい。とりわけ、始めてみた海。見開きを使って巨大な海を描き、手前に岩とそこにたたずむグリックとのんのんを配置する。
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 こういう広大で、神秘的で、包容力のある海は真崎守「ジロがゆく」でおめにかかったくらいだ。
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 自分の読んだのは講談社文庫版だが、今は品切れ。でも初出の岩波書店がまだだしている。たぶんイラストは初出から変わらずに載っているはず。動物の生き生きしたイラストを眺めているだけでも楽しい。
 さて、以上の物語への感銘を残したまま、中年から老年にかけて年齢での再読で感じたものは、必ずしも共感ではなく、いくつかの違和感だった。たとえば、グリックを旅に向かわせたフラックは、一軒家に残り、ほとんど食べ物をとらずに餓死した。彼女の受苦(@シモーヌ・ヴェイユ)というのは、グリックの冒険の成功によって賞賛されたり報いのあったりするものなのか。彼女はグリックとともに出発するべきでだったのでは? 動物園の住民はたしかにのんのんを制裁するなど共同体の悪しきところを体現しているとはいえ、彼らの生き方は完全に否定できるのかしら(なにしろほとんどの労働者は会社に所属して「檻」を常に意識しているのだ)。「北の森」はたしかに、優れた住民ばかりであるようだが、ほんとうにユートピアであるのか、自由で不満のない社会というのは、アプリオリに、あるいは「自然状態」において存在できるのかしら。彼らを迎えた人々はなにかの観念に取り付かれて地獄にありながらそこを天国とおもう人々ではないのか。グリックは冬があけた後、そこが「天国」「ユートピア」とは違うという意識(動物園で感じたような)を持つのではないか。まあ、こんな不安というか違和感をもつ。まあ、このような批判も、グリックからすれば、動物園でみせかけの安住をむさぼっていると批判されるかもしれないが。
 あと、このような自己変容を目的にした旅は、初期のル=グインの主要なテーマだった。「ロカノンの世界」「辺境の惑星」「幻影の都市」などを参照のこと。