しばらく短編を書いてこなかった著者が1980年に久しぶりに短編を書いた。前作は「みずからわが涙をぬぐいたまう日」1972年だから10年ぶり。その久々の短編が「頭のいい雨の木」。この「雨の木」のイメージに武満徹が触発されて同タイトルの作品を作曲し、それに刺激された作家はさらにイメージを膨らませていくつかの短編に仕上げた。それをまとめたもの。
当然BGMは武満徹の「雨の木」。2つのマリンバとビブラフォンのための作品。
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音楽大学の打楽器科を卒業した女性と話をする機会があって、彼女は「雨の木」を演奏したといい、しばらくその話で盛り上がったことがある。懐かしい。
頭のいい「雨の木」 1980.01 ・・・ ハワイで行われた文学セミナーの後、深夜のパーティに参加した。そこにはビートニクの詩人(アレンと呼ばれるからギンズバークのことか)もいる。ドイツ系の女性に頭のいい「雨の木」を示してもらうが、姿がみえず種類もわからない。詩人と建築家の「位置」(物理的な位置と社会的な役割としての位置)に関する議論。パーティの雰囲気はおかしくなって、ついに建物の最上部の部屋に到着したときに奇妙な事態がおきたのがわかる。親指の腹ほどの葉をもつ樹木は水をためるので、雨天のあと晴天になってもその下に雨を降らすというイメージ。その親指の腹ほど葉が群れる姿が、パーティ会場の風変わりな建物の配置と重なり、そしてそれらを包む社会組織のイメージになる、というのかな。発表当時の韓国、イラン、ドイツの社会状況を知らないと、登場人物らの反応は要を得ないものとみなされそう。
「雨の木」を聴く女たち ・・・ 上の短編の出来事の後、ハワイのセミナーに参加すると、大学の同級生・高安カッチャンと再会。この天才であると同時に生活がだらしなく、何一つ成果をあげられず、人に寄生してばかりのトリックスター。同級生の葬儀についていちゃもんをつけられ、宿泊先に泥酔してコールガールを連れてきて作者の前でsexし、空港の免税店で密輸の手伝いをさせる。他人にかまってほしいにもかかわらず、悪意でもってしか交友できず、そのあと激しい後悔でアルコールにおぼれる。こういう破滅的な男(それはドスト氏「罪と罰」にでてくるマルメラードフにそっくり)が、生活を異化する。中年になってからの「日常生活の冒険」だな。もはや冒険のできない年齢にはうっとうしいかぎり。
「雨の木」の首吊り男 ・・・ メキシコの大学で日本文学を講義している作家は、家から時折届く障害を持った子供の容体に一喜一憂している。メキシコの生活や路上にある死の寓意やメタファーに気分が揺り動かされる。渡辺一夫の「寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容になるべきか」のエッセイを講義すると、中南米の亡命者(軍事政権に抗議しての)から反発を受ける。ファシズムには寛容であることはできない。ペルー生まれの日本文学研究者ががん告知をされて、彼のことを思い出す。ガンで体が痛められて死ぬより、「雨の木」で首を吊ることを選びたい。生と死、聖なるものと俗なるもの、腐敗物と性、日本のインサイダーとアウトサイダーなどのぶつかり合いから、生活や人生を異化しようとする。いろいろ詰め込み過ぎなのと、作家の小説の方法を知っておくことが必要なのとで、たぶん初読時には難解で散漫な印象を受けると思う。再読でもそうだったけど。
さかさまに立つ「雨の木」 ・・・ 「雨の木」を聴く女たち」から1年後。再びハワイに行き、文学者のセミナーと反核集会に参加することになった。死んだ高安カッチャンの遺稿をもつ内縁の妻と再会したり、反核集会での講演を政治的な理由で婉曲に断られたり。マルカム・ラウリー「活火山の下で」を読みながら、高安による「雨の木」を聴く女たち」批判を考えたり、逆さになったセラフィトの木に「雨の木」を重ねたり。頭のいい「雨の木」 のあった病院が消失し、「雨の木」も焼けてしまったことを知る。読者が考えるような小説批判がすでに書かれていて、すなわち語り手が傍観者であり不正直な記述で人物を矮小化しているとか、フィクショナルなものとアクチュアルなものの境界があいまい、中途半端なストーリーは語り手をいい子にするための自己韜晦であるとか。そういう批判的人格が女性とか外国人とか、作者の外の人に仮託されているのが、この小説の趣向。
泳ぐ男――水の中の「雨の木」 ・・・ 草稿を書いて完成を断念した「雨の木」の長編。そこからスピンアウトした中編。中年作家の「僕」が通う水泳プールのサウナ。そこにいる二人の若者。選手として厳しい練習を科している玉利くん。30代前後と思えるOLの猪ノ口さん。あるとき猪ノ口さんが深夜の公園で強姦されたうえ扼殺されていた。ふたりのサウナでの奇妙な会話をきいている「僕」は彼らのことを思い出し、通りすがりの高校教師(事件直後に自殺)による犯行ではない別の解決を思いつく。もちろん探偵ではない「僕」は推測することしかできないが。20年後の「性的人間」。前作は10代後半から20代前半の若い男の性的冒険でそれは「実存しちゃう@赤頭巾ちゃん気をつけて」こと、存在の神秘に触れる行為であると思われたが、40代になると家族や社会の制約があって性は危険なものになる。「僕」の躊躇はそこらにあって、一方の猪ノ口さんの挑発と若い筋肉質の玉利くんの不能(ほのめかされているだけだが)もまた彼らの関係を壊すだけ。苦いなあ。肉体の衰えは性の問題を扱い兼ねることにかえるのかしら。30代の時の読書では勃起もしたが、今の年齢になると若い男女の性的冒険は痛々しいだけだ。
この短編集では、「雨の木」のイメージが繰り返されるので、その文章は引用しておこう。
「『雨の木』というのは、夜なかに降雨があると、翌日は昼すぎまでその茂りの全体から滴をしたたらせて、雨を降らせるようだから。他の木はすぐ乾いてしまうのに、指の腹くらいの小さな葉をびっしりとつけているので、その葉に水滴をためこんでいられるのよ。頭がいい木でしょう。(P14-15)」
これを中心において死と再生、宇宙的な交感のイメージをひろげたかったのだろう、と推察する。あいにくこの短編集に収められるくらいの小説群しか生まなかった。ここに収録された小説は技術は見事であっても、散漫で、イメージが貧困で、「さかさまに立つ『雨の木』」 にある自己批判がそのままあたる失敗作になった。なので「雨の木」の長編構想は潰えた(と推測)。
たぶん、「同時代ゲーム」で実施し「小説の方法」で模索した新しい小説の書き方を発展させたかったのだろう。その主題は中年になり死を意識するようになった年齢においての人生の慰みと再生の可能性だ。そのイメージは「壊す人」として構想され、一度死んだ壊す人は長編の終わりで子犬ほどの大きさにまで育つ。だが、動物のイメージでは寿命が短く宇宙的な再生をもくろむものにはなりえず、名の通り「壊す」ことを本業とするトリックスターは死の力が大きく、再生と再建のイメージにはそぐわない。
そこでハワイの病院に生える「雨の木」を中心に据える。自分には、この雨の木は日立のTVコマーシャルにでてくる「この木なんの木」の巨大な樹木に思えて。でもこのイメージも弱弱しいのだったね。自力で再生するというより、誰かの助けや補助がないと立てないような感じ。この短編集の小説群でも雨の木よりも倒立したセラフィトの木のほうが力強いものな。
そこで「雨の木」は捨てられる。10年を経てようやく見出したのが「燃え上がる緑の木」。こちらは語感でもイメージでもずっと力強いし、なにより村=国家=小宇宙のサーガの真ん中にたつことができる。「同時代ゲーム」「M/Tと森のフシギの物語」には登場するが名前のなかった、洲にある大きな木(たしか壊す人が鉄棒のように遊んだ枝を持っている。それと融合できるイメージ。泳ぐ男――水の中の『雨の木』」では語り手を中年男性の「僕」だったのを、17歳の両性具有者に変えることで、村=国家=小宇宙のサーガと性的人間が融合できて、長編3部作に結実した。そんな妄想をしてみた。
(あと、「同時代ゲーム」で再生イメージを「壊す人」に与えて、樹木が背景になったのは前作「ピンチランナー調書」のラストに「燃える森」という言葉を書きつけてしまったから、と思った。ここでの森は人の名前だったけど、死と再生のシンボルでもあって、両方のイメージごと燃やしてしまっているのだ)。