版元の紹介文はざつなので、amazonのものを利用。
「「巨大な敵に狙われている」。元警視庁SPの冬木安奈は、チェスの世界王者アンディ・ウォーカーの護衛依頼を受けた。謎めいた任務に就いた安奈を次々と奇妙な「事故」が襲う。アンディを狙うのは一体誰なのか。盤上さながらのスリリングな攻防戦―そして真の敵が姿を現した瞬間、見えていたはずのものが全て裏返る。」
SP時代の失敗(軽薄な政治家の護衛に失敗し、「自殺」された―実際にあった事件をアレンジしたという)で、失意の女性SPが、新宿歌舞伎町でバーテンダー兼用心棒をやっている。そこで上記のような依頼がきて、「困った人は助けなければならない」という父の教え(それを実行した父は殉職―これは主人公の女性のトラウマになっている)を守るために、いやいやながら警備につく。わがままで常識が通用しないクライアント、どういう相手かわからない「敵」。頼ることができない警察。アンディーを追うものには入管もいて、彼らの存在はむしろSPの邪魔になる。なので、女性主人公は過去の教えと体験を最大限に利用して(しかし彼女のメンターはあまりに巨大な存在で彼女の勇気をへし折ることもある)、ことにあたらなければならない。
ハリウッド映画などに出てくるボディーガードものや、巻き込まれ型サスペンスでは、中盤以降はド派手なアクションが続くものだが、ここではほとんど何も起こらない。クライアントの部屋の訪問、ホテルへの訪問、クライマックスの待ち伏せに「敵」は姿を現すだけでアクションはほとんどない。現在進行中の事件で、女性主人公はホテルを点々とするのと、突然いなくなったクライアントの後を探すために、歌舞伎町のバーに帰るくらい。事件は24区の南西四分の一くらいでおきて、とてもせせこましい。大掛かりなスパイアクションや巻き込まれ型サスペンスを期待すると、肩透かしを食らう。でも、敵を大きくすると、主人公がスーパーマンや007なんかのファンタジーになる。アクションを増やすと、映画「レオン」みたいに主人公が超人になってしまう。この国の事情にあわせてリアリズムを意識すると、このくらいのエピソードでいいのでしょう。
代わりに挿入されるのは、女性主人公の半生。古武道の継承者の孫で抜群の能力の持ち主。いろいろあってSPになったが、男性の上司にしごかれる。退職した後のこの事件でも、男性上司および警察機構の庇護を超法規的に得られる。この設定にはもやもやする。組織に所属する彼らの援助が必要なのはこの事件の性格上必要とはいえ、彼「女」の活躍が防弾チョッキを着たうえでの自己犠牲的行為にまとまるのはねえ。この国の男社会は女性に抑圧的ではあるが、ここでも女性の犠牲や献身を要求するのか。フィクションくらい、女性に大活躍させろよ。あまりにお約束の展開で好きではないが、女性探偵が自力で頑張るスー・グラフトン「アリバイのA」1982年に、まだこの国のフィクションは追い付いていないのかねえ(本書の初出は2010年)。
もうひとつの物語は「天才」アンディ・ウォーカーの半生。チェスの奥義と宇宙に取りつかれ、世界最強(どころか神にも勝とうとする)を獲得し、その先を見ようとする。傍目には社会不適応者であるが、チェスを通じて彼を見る者にはとても魅惑的な風景を見せてくれるので、熱烈な支持者がいる。こういう人物は作中で紹介されるチェスの天才のほかに、われわれにはこの人物によって近しい。
ポール・ホフマン「放浪の天才数学者エルデシュ」(草思社文庫) 1998年
凡俗の俺からすると、迷惑をかけずに旅をすることしかできない厄介者で、およそ理解の範囲外であるが、遠目にはおもしろい存在。
タイトルの「キングとクイーン」は、チェスの世界王者(キング)とクイーンのあだ名を持つもとSPの協力という意。最後にもう一つ別の意味が込められていたのがわかる。それはアンディの天才の物語から浮かびかがる構図(マリオ・バルガス=リョサ「都会と犬ども」とおなじ仕掛け)。こういう小ネタがうまい。
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作中でちょっと気になるのは、わかいときほど創造的になるのが音楽(と数学とチェス)であり、その例にモーツァルトとロッシーニがあげられること(10代で作品を書いた作曲家はほかにもたくさんいるが割愛されている)。実際は、西洋クラシック音楽で創造的な活動をするのは大人になってからなのが大多数。二人は数少ない例外であり、若書きの作品は彼らの代表作ではない。幼稚園ころからの早期教育を薦める際にも、モーツァルトが出てくるが、彼は例外なのであって、似たような音楽の早期教育を受けたほかの子供らは全部潰れたのだ。なので、こういうあおりはやってほしくないなあと思う。
<参考エントリー>
池内紀「モーツァルト考」(講談社学術文庫)