odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

コナン・ドイル「シャーロック・ホームズの冒険」(角川文庫)-1 「ボヘミアの醜聞」「赤髪組合」「唇の捩れた男」。外部の記録装置に容易にアクセスして検索できるようにしたのがホームズの探偵方法。

 「四つの署名」事件でワトソンは結婚し、ホームズとのルームシェアは解消した。それから2年たって、落ち着いたワトソンはホームズとの旧交を温めることにした。すっかり「名探偵」の名声をほしいままにするホームズのもとには様々な依頼人が悩みを抱えて相談にやってくる。

ボヘミアの醜聞 A Scandal in Bohemia ・・・ ボヘミア王国チェコオーストリア帝国領にあったので、架空の王国。でもこういう話題になるくらいに独立運動があったのだろう)の国王が若い時の留学で歌手に入れあげた証拠写真を取り返してほしいと依頼する。この時代の上流階級は成人のころに単身で留学し、大人になったのだね(その模倣が昭和天皇20才のときのヨーロッパ漫遊)。ホームズは馬丁に身を変えて、歌手の周辺に探りを入れる。イギリスの階級社会は同じ階級には心を開くが、そうでないと受け入れない。では階級と職業をどうやって見分けるかというと、服装と言葉使いなのであって、変装はそのための手段。ホームズのような高等遊民ブラウン神父のようにどんな階級にも出入りできるわけではないからね。

赤髪組合 The Red-Headed League ・・・ 太った見事な赤毛の男が「赤毛連盟」の仕事(ブリタニカ百科事典を書き写す)を金曜日に失ったと訴えてきた。とくに報酬もないのに、ホームズは興味を示す。発端の不可解さ、ホームズの奇妙な冒険、暗闇の待ち伏せ、急転直下の解決、極めて巧妙に書かれた伏線。見事。この模倣作が一体いくつ書かれたことか。1890年にはロンドンでは、地下鉄が走り、イギリスは金本位制で(シティは当時世界最大の金融街)、サラサーテが現役だった(20世紀初頭にSP録音を残している)。

花婿失踪事件 A Case of Identity ・・・ 親の資産をもち、タイピスト(1890年代にはもうこの職業があったんだ! ということはタイプライターは発明済で商用化されていた)で、近眼の箱入り娘。ある男に夢中になったが、馬車から姿を消してしまった。あきらめきれないので探してほしいという。乱歩「一人二役」を思い出した。恋愛の自由はあったようだが、夫婦の婚姻関係は強固でなかなか切れないものだったらしい。

ボスコム谷の惨劇 The Boscombe Valley Mystery ・・・ ボスコム谷で仲のよくない父と息子が森の中にはいった。しばらくして父が殺されていると、息子が森から出てきた。状況は息子に集まる。ちょっと間が抜けているが善良な息子が父を殺したとは思えない。ホームズは森の中を都会のように這いずり回って調査する。ケラー「村のロメオとユリア」みたいな話。ドイツでは自然主義の物語になるのが、イギリスでは森の中のファンタジーになる。それくらい都市は殺伐としたところ。

オレンジの種五つ The Five Orange Pips ・・・ 父にインド(いわずもがなだがイギリスの植民地)から手紙が届いた。3つのKが書かれ、オレンジの種が5つ入っている。それから父はおかしくなり、自宅の池でおぼれた。ホームズは手紙の通りにしろと命じたが、しばらくして依頼人は「事故死」してしまった。ほとんど初めての失敗にホームズは復讐を誓う。長編のモルモン教徒といい、ここの「3つのK」といい、アメリカは異教徒のうようよいる遅れた秘境という認識だったのだな。

唇の捩れた男 The Man with the Twisted Lip ・・・ 身なりの良い紳士がロンドンの阿片窟に入りこむのが目撃された。警察と一緒に家宅捜査にはいると、唇のねじれた男がいるが、紳士の姿は消えている。窓から逃げた形跡があり、ポケットに小銭をたくさん入れたコートが川底から見つかる。男は紳士を見たことがないという。男が拘留されて一週間後手紙が届いたが紳士のゆくえは知れない。なぜビクトリア朝の夫婦は見かけ通りにうまくいかないのだろう。男の脱出願望、女の家庭願望。


 「オレンジの種五つ」事件で、ホームズは、「人間は小さな頭脳の部屋に、自分がよく使う家具を備え付けて、それを維持しなければならない。そしてそれ以外のものは書斎から放り出して、いつか必要な時に取り出せる場所に置けばいい」という。すべてを知ること、記憶することは個人では困難なので、外部の記録装置に頼ればよい。実際、ホームズは自室に巨大なファイル(有名人の人名録、犯罪者のリスト、過去の犯罪記事など)を大量にもっている。必要に応じて記録を参照し、用途が終えたら記憶は捨てて構わない。こういうデータベースの方法がホームズのやりかた。これは大英博物館の方法であるし、科学の方法でもある。ホームズの時代には雑誌Natureが刊行されていて、科学の最新知見はこれを参照することで得られた。雑誌という記憶装置で重要なのは論文のフォーマットが定まって、どれも同じように読めることが重要。個々の記録の質はかっこにいれておいて、アクセスや検索をしやすくしたのがホームズと科学の方法だ。
 細かいことを言うと、記録を外部の装置に任せるとしても、ほしい情報を検索するための方法とキーワードは記憶しておかなければならない。ここはどうしても脳が記憶しておかないといけないのであって、ホームズの小さな頭脳の部屋に家具は少ないだろうが、リストは整然と保管されている。