odd_hatchの読書ノート

エントリーは2400を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2020/10/13

木下順二「木下順二戯曲選 III」(岩波文庫)

オットーと呼ばれる日本人 ・・・ 1930年代の上海。ドイツのナチスに席を置くジョンソンと呼ばれるドイツ人を首魁を中心にしたアメリカ人、中国人、日本人たちの国際共産主義スパイ活動。その一員である「男(とだけ呼ばれるので「オットー」)」が主人公。彼は、共産主義スパイ活動を行いながら、時の政府の嘱託になり、総理とさしで話し合いのできる立場にある。彼は共産主義に理解をもちながら、日本人が破滅に至ることを恐れ回避する方法を模索している。舞台は、上海、東京。そして「男」の家、バー、新聞社の一室などめまぐるしく変わり、物語はスパイ小説のごとく進む。主人公の苦悩はたとえば「ゴメスの名はゴメス」と同じでありながら、凡百のエンターテイメントの及ぶところではない。その異質さは、「日本人」であることへの屈折した感情にあるのだろう。たしかに、戦争状態においてそれに反対するものは、サルトルのいうとおり(レジスタンスに)社会参加するか、日和見になるかというような単純な二者択一であるのかもしれないが、戦争状態においてもなおもっと複雑で理解しがたい「選択」の仕方があるのだということ。そのような選択をする背景や思想や感情に思いをめぐらすことのできないものにとっては、この主人公の苦悩は異質で不気味なものだ。なお、ゾルゲ事件に範をとっていて、登場人物にはたぶんモデルがいる。上海の「宋夫人」はたぶんアグネス・スメドレー(「男(尾崎秀実をモデルにしている)」は、彼女の書いた小説に「女一人、大地を行く」というタイトルをつけるが、これが彼女の本と同じタイトル)。


神と人とのあいだ ・・・ 第1部「審判」は極東軍事裁判の模様。2年間にわたる裁判のうち、罪状認否と弁護団による管轄権の異議申し立て、捕虜虐待に対する検察と弁護団の審議、原爆使用に関する混乱が抜粋されている。われわれは映画「東京裁判」によっておおよその概要を映像と音声で知ることができるが、それまでは文書を読むしかなく、ほとんどは裁判があったことと被告のうちの7名が絞首刑になったことだけを知っている。そういう時代においては、この劇の上演は知識の普及と裁判の論点(罪状に関してではなく、なにが議論されていたか)を知るよい機会になっただろう。
 第2部「南洋のロマンス」は戦後(極東軍事裁判の死刑囚の刑執行の直後あたり)の東京か。戦争未亡人のところに戦友が尋ねてくる。彼らは未亡人の夫が彼らの土人(あえてこのように表記)の虐待の罪を背負ってC級戦犯として処刑されたことを告げにくる。そこには夫が戦地に出かける前に一夜のアバンチュールのあった女漫才師がいて、独りの息子がいる。舞台は突然、裁判所に代わり、彼ら兵士とその尉官や士官その他も関係した裁判の様子になる。夫である兵士は通訳として土人と交友を深めていた。彼らの証言が兵士の減刑に必要ということで、尉官や士官、弁護士は土人の証人を必要とする。夫は友人の少年を証人として迎え、だれが殺人犯か指差せという裁判長の指示で自分を示すことを受け入れる。舞台では、裁判の様子と、未亡人や女漫才師などの「現在」の状態が混沌とした状況になって進む。これはもちろん第1部の形式的に「きちんとした」A級戦犯の裁判との対比になる。
 いい加減な感想
・見知らぬ国の、言葉も通じない状況における裁判の恐怖。たとえばそれは、カフカ「審判」「城」に通じ、ユリウス・フチーク「絞首台からのレポート」(青木文庫)に通じ、イエールジ・コジンスキー「異端の鳥」(角川文庫)なのだろう。たぶん「私は貝になりたい」という映画では描ききれない恐怖や不安になるのだろう。このあたり、自分は漠然とした観念しかもっていなかったが、ようやくB級C級戦犯の不条理というか不合理、実存などに共感をもてた。これは「恐ろしい」。
大岡昇平「俘虜記」あたりが同時期になるのだろうが、むしろ高杉一郎「極光のかげに」(岩波文庫)に近いのかも知れず、たぶん同じ主題で書かれた文学というのはないのではないかと思う。(さらにいいかげんなことをメモすると、戦後派文学をリードした作家はかならずあの「戦争」のことを書いている。その精神の厳しさというのは、その前の作家にもその後の作家にも認められないので、自分はこの国の文学約150年の歴史の中で、彼らのものがもっとも重要であるように思う。)
・女漫才師はもちろん狂言回しであって、未亡人と戦友のギクシャクした関係を取り持ち、ストーリーを進める役なのであるが、その存在はすすんで戦友の罪を引き受ける夫の姿の反映。同じく、未亡人と夫の間の子供は、無邪気に夫を指差す土人の子供なのであって、このあたりの重層したドラマは読み応えがある。あいにく1982年現在で上演されていないので、どのような舞台になるかは見当もつかない。
木下順二の作品にはこのような重たい主題があるのだが、どうじにインテリはどのように状況にコミットするのかという問題が問われている。オットーという男にしろ、進んで死刑を受け入れる男にしろ、インテリであることの問題が提起されている。彼らはたいていの場合、割の合わない、不利益をこうむるのであるが、そのような選択を引き受ける根拠というか理由をどこに見出すのだろう。彼らは「観念」に準じるわけでもなくて(民族とか国家とか思想とか、そんな観念の根拠に不信を持っている)、なにかの「倫理」をもっているのだろうが、そこのところをつかむのは難しい。というかわからない。