2014/04/10 ウラジミール・ナボコフ「賜物 上」(福武文庫) の続き。
1920年代のベルリンにおける亡命ロシア人コミュニティが舞台である、というのは読み進むにつれて、ほのめかしや断片的な情報を組み合わせてわかること。実際には、どの都市のどの時代なのかははっきりしない。しょっちゅうでてくる「アガメムノン通り」はベルリンにはない(と調べもせずに書いてしまおう)。アガメムノンの神話はよく知らないけど、父=英雄の不在が重要なモチーフになっているから、主人公の心情の象徴なのだろう。こういう例のように、現実の描写は、細部は克明なのに全体は茫洋としていて、とても幻想的。人物たちの周囲をなにかヴェールをおおっているように、政治や経済、戦争のような大状況を書くのを避けている。あるいは拒んでいるのか。(執筆時期が1935−37年のベルリンなので、1920年代のワイマール共和国を好意的に書くのが危険であったという事情もあるだろう。)
それは話者についてもそうであって、「わたし」の一人称が語るときもあれば、「ヒョードル」の三人称で語られるときもある。それが同じ段落の中で突然入れ替わる。しかも、この「ヒョードル・コンスタンチノヴィッチ」はもうひとつの「ゴズノフ・チェルティンツェ」という名前を持っていて、他の人物にそのように呼び掛けられる。冒頭からしばらくはこの三人が別人であると思い込むはず。それが読み進むにつれて、同一人物であるのだろうという推測する。それが正しいかどうかは、最終ページまで読んでもはぐらかされたようにあいまいにぼかされている。こういう書き方。
それは時間についても同じ。年号は書かれず、いくつかの歴史的事実(まあ起点になるのは1917年10月だ)からどのくらいの時間がたったのか、あたりで読者が推測することになる。小説の中の「いま-ここ」はあいまいにぼかされている。まあ、勝手な推測をすれば、近代以降の小説が主人公にしてきた「主体」というのは、なにかの幻想(たとえば、国家や言語、民族などかな)を暗黙のベースにしていて、そういうものを剥奪されて、いつ追放になるかわからない亡命者には「主体」というのはないのですよ、ということなのかもしれない。亡命者に限らず、20世紀の都市生活者には主題や主体や主張はないのですよ、ということになるかな。喪失と空虚が都市生活者の実体、そこからは19世紀的な小説はありえない、とでも。
それもあるのか、主人公の「わたし」=ヒョードル=ゴスノフは、なにかを探している。ひとつは父(というか離れ離れになった家族だね)。父は冒険旅行中に行方不明、母や妹はたぶんロンドンにいて手紙でしか情報を得ることができない。そこで、彼は父や母のファミリーツリーをたどって(それはロシア帝国の思い出に結び付く)、自分の根拠を見出そうとする。第2章の三人称で父の伝記を書いた後、最終章で父の幻影を見るところは感動的だった。
もうひとつは言葉。いったい主人公は言葉の特別な感覚の持ち主。ランボーの「イリュミナシオン」よろしくさまざまな発声から色を見出すという感覚を持っている。そしてロシア語のアクセントや語の強弱を詩のルールに当てはめることのできる言語のテンポを操れる技術を持っている。なるほど細部が克明に描写され、全体が幻想的な雰囲気になるのはこういう言語感覚(それは学者やジャーナリストとは異なる)の持ち主だからか。
さらには理解者。主人公の「わたし」=ヒョードル=ゴスノフは神経質で好き嫌いがはっきりしていて感情を制御するのができないことがあり、人見知りが激しい。だから午前中はこもり、仕事の時には出かけ、夜は店で一人きりになり、深夜に執筆するという生活をする。こういう自閉的なところが、言葉だけでなく蝶やチェス(いずれも父の薫陶)を好む理由になっている。ひとり遊びで時間を過ごすことのできる人。それゆえに彼は理解者を求める。最初は母だが、自立の後は別の人と出会わねばならない。だが彼のおめがねにかなう人はめったに出てこない。亡命ロシア人の文芸サークルのようなインテリの集まりですら彼には物足りない。そこに現れるのがジーナという若い女性。彼女は、主人公にとって、愛の対象であるとともに、母のような生活者で妹のような庇護を要求される人で、重要なのは主人公の作品の理想的な読者。そのような存在を見つけることができた。重要なのはこれらの探索の末にそれぞれにふさわしい物や人を得たとしても、主人公に「主体」が生まれるわけではないこと。20世紀の聖杯探求は幻滅と出会うことなのだ。
そういう頭と育ちの良い、しかし社会にはうけ入れられていない不遇な若者の精神的な自伝。いくつか引用。
「ほんとうの作家は現在の読者は無視すべきなんです。未来の読者だけを相手にすべきなんです。そして未来の読者は、結局、時間に映した自分自身の姿にほかならないわけです。(下巻 P207)」
「一切をかき混ぜ、かき回し、かみ砕き、かみ直し、好みの香料を加え、自分のなかに完全に吸収してから作品にし、自伝的なところは、その微塵――空をもっとも美しいオレンジ色にする微塵――以外は、なにも残らぬようにする、と。(下巻 P247)」
「まず言葉を完全に自分のものにするため(下巻 P247)」に書くのが、この「賜物」自身に他ならない。注意するのは、非常にフィクショナルな自伝であって、主人公はナボコフその人ではないし、出来事が実際にあったわけではない。書かれたこととリアルとごっちゃにすると誤ることになる。
賜物は、亡命者として資産・家柄・家族・コミュニティを失った作者に与えられた言語と、彼の理想的なパートナーであるジーナを指す、ということでよいかなあ。読者にとっては、試行錯誤のすえ自己発見に至った顛末を記録したこの小説そのものが「ギフト」。
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