odd_hatchの読書ノート

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奥泉光「『吾輩は猫である』殺人事件」(新潮文庫)-3

2019/11/14 奥泉光「『吾輩は猫である』殺人事件」(新潮文庫)-1 1996年
2019/11/12 奥泉光「『吾輩は猫である』殺人事件」(新潮文庫)-2 1996年

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 古典的なテキストを基にして、別の物語を載せてリフレッシュさせる文学は、例えばクリストファー・プリースト「スペース・マシン」がある。
<参考エントリー>
クリストファー・プリースト「スペース・マシン」(創元推理文庫)-1
クリストファー・プリースト「スペース・マシン」(創元推理文庫)-2
 本書もそのような一冊(柳広司「贋作「坊ちゃん」殺人事件」(集英社文庫)もそうだが、本書のあとの2001年初出)。本書では、漱石版「吾輩は猫である」の後日談の物語に、各国の猫たちによる推理合戦を乗せた。さらにもう一つ加えたのは、語り手「吾輩」の自分探し。苦沙弥殺害事件の重要参考人として、過去のできごとを証言するものであったのが(パット・マガー「七人のおば」「被害者を探せ」と同じ趣向)、事件そのものの鍵を握ることが明らかになる。すなわち、「虞美人丸」の航行中を催眠術で「夢十夜」と同じ出来事を語るのを最初に、「虞美人丸」にいっしょに乗りこんだ「虎」君が青白い(光を放つ)猫を目撃しそれが「吾輩」らしいと知れ、再度乗り込んで「バスカヴィルの黒狗」と対峙するうちに犬の言葉を解するようになり、死んだと思われた三毛子(「天璋院様の御祐筆の妹の御嫁に行った先の御かさんの甥の娘」を繰り返すおしゃまな若い牝猫)と精神感応する。しかし決定的なのは苦沙弥家に一年有余の年月を居候しながらついに名をつけられず、「吾輩」も名前を記憶せず、さらには記述が後半になるにつれて同類の「猫」の記述が少なくなるというテキストの問題を指摘されると、「吾輩」は自分の記憶そのものと出生の由来について疑わざるを得ない。この実存的な懐疑は夢野久作ドグラ・マグラ」と同じく、時間の軸がタガを外していて、どことも知れぬ幽冥の界にいたのではないかと思わせるのである。それこそ「夢十夜」の主題であり、「吾輩」の鮮明なイメージである「五千年」のエピソードは幻影であるどころか、それこそが現実ではないかというところまでに至る。
 そこまで来ると、苦沙弥家に出入りする凡俗のものらが羊の皮をかぶった狼であることを隠した麻薬密輸団の陰謀こそ大きな問題であり、その背後に明石元二郎やラスプチン、モリアチー教授らの影がちらつくとなると世界規模の危機となる。苦沙弥殺害事件の謎(密室、百合の花、細君と女中の不在、動機など)は背景に押しやられ、虞美人丸で行われる実験の騒ぎにおいて、人間も猫ももはや思い出すことはない。しかし、「吾輩」にとっては過去とアイデンティティを再発見する重大な一瞬になり、そこに過去も未来もないような永劫と合一するのである。それこそ「則天去私」であるのかもしれず、「吾輩」はオイディプス王のごとき他人の事件の捜索の果てに自分自身を発見するのである。名無しであるという無個性はそれゆえにこそ宇宙的な普遍性を獲得するのであった(しかし猫の普遍性は人間には全く影響を及ぼさない。その皮肉。さらにそこまで存在の特異性が高まっても、苦沙弥殺人犯がだれかはわからない。探偵小説の枠組みを使いながらそれを脱臼・批判しているところ)。
 さて、小説は1905年11月23日苦沙弥家という特異点にもどる。そこに至るまでの冒険で明らかになったのは、「吾輩」の実存にかかわる謎のみであり、冒頭の苦沙弥殺害事件については数人の関係者とその意図は判明したものの「犯人」は不明。まさに「犯人」が入室しようとするところで、記述は終わるのであるが、読者が知っているのはこのあとに本書の冒頭が始まること。すなわち「吾輩」はふたたび失神し「虞美人丸」で上海に行くのだ。「吾輩」の時間は円環になり、そこから脱出することはかなわない。「吾輩」の経験した一瞬は、無限の輪の中の火花にすぎず、選ばれた存在は閉鎖された輪の外に出られないまま、永劫の中にいる。これは心底恐ろしい。
 そうなると、本書は「殺人事件」のタイトルがつけられ、おおむね探偵小説の作法にのっとって記述されてはいるが、最後に探偵小説であることをはぐらかす。むしろ探偵小説の枠組みを批判解体するものではないか。世の中には「三大奇書(または四大奇書)」なるカテゴリーがあるが、本書はそこにはいるべき「アンチ・ミステリー」である。圧巻(1996年初出)。

 

2014/05/22 小栗虫太郎「黒死館殺人事件」(現代教養文庫) 黒死館殺人事件1
2014/05/21 小栗虫太郎「黒死館殺人事件」(ハヤカワポケットミステリ) 黒死館殺人事件2
2014/05/20 小栗虫太郎「日本探偵小説全集 6」(創元推理文庫) 黒死館殺人事件3
2014/05/19 小栗虫太郎「黒死館殺人事件」(河出文庫) 黒死館殺人事件4
2019/10/29 中井英夫「虚無への供物」(講談社文庫)-1 1964年
2019/10/28 中井英夫「虚無への供物」(講談社文庫)-2 1964年
2019/10/25 中井英夫「虚無への供物」(講談社文庫)-3 1964年
2019/10/24 中井英夫「虚無への供物」(講談社文庫)-4 1964年
2011/11/07 竹本健治「匣の中の失楽」(講談社文庫)
2019/11/05 山口雅也「生ける屍の死」(創元推理文庫)-1 1989年
2019/11/04 山口雅也「生ける屍の死」(創元推理文庫)-2 1989年