odd_hatchの読書ノート

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村上陽一郎「ペスト大流行」(岩波新書) 1337年からのパンデミック。人口の大減少は封建社会を終わらせ、民族・人種差別を助長した。

 エーコ薔薇の名前」の舞台は北イタリアの修道院。時は1327年。この数年後の1337年に中央アジアあたりから蔓延してきたペストが、南ヨーロッパギリシャとかトルコあたり)に上陸した。約7年間、ヨーロッパ全域で猛威をふるった。当時のヨーロッパの人口は約1億人と見積もられるが、控えめに見ても25%が死亡したと考えられる(上記「薔薇の名前」では、「探偵」ウィリアム・バスカヴィルは連続殺人事件を解決したあとペストで死んだとされる)。

<参考エントリー>
2016/03/29 鯖田豊之「世界の歴史09 ヨーロッパ中世」(河出文庫)-1
2016/03/30 鯖田豊之「世界の歴史09 ヨーロッパ中世」(河出文庫)-2
2016/03/31 鯖田豊之「世界の歴史09 ヨーロッパ中世」(河出文庫)-3
2016/04/01 鯖田豊之「世界の歴史09 ヨーロッパ中世」(河出文庫)-4
2016/04/04 ウンベルト・エーコ「薔薇の名前 上」(東京創元社)-1
2016/04/05 ウンベルト・エーコ「薔薇の名前 上」(東京創元社)-2
2016/04/06 ウンベルト・エーコ「薔薇の名前 上」(東京創元社)-3
2016/04/07 ウンベルト・エーコ「薔薇の名前 下」(東京創元社)-1
2016/04/08 ウンベルト・エーコ「薔薇の名前 下」(東京創元社)-2
2016/04/09 ウンベルト・エーコ「薔薇の名前 下」(東京創元社)-3

 ペストはクマネズミに寄生するノミが媒介して人に病原菌を移す。この事実は19世紀もほとんど終わりになる頃に、発見された(発見者の一人が北里柴三郎)。当然、14世紀の人はこのような考えを持たなかったので、致死率の異常に高いペストに対して、ほぼ無力だった。
 さていくつか。
・10世紀ころから、農業技術が発展して(三圃農業、鉄の農具の発明、馬の使用など)、生産性が非常にあがった。そのため、2世紀以来ほとんど人口に変化のなかったヨーロッパで、人口が増加した。農村部では上記の生産性の向上と奴隷制の解体(無理やり人を集めなくとも十分な生産を上げられるから奴隷は不要)し、人口は特に増えていない。むしろ放縦する商人が定住することで拡大した都市に人口が集中するようになった。柄谷行人によると、このように成立した都市から資本主義が発生したとの由。日本の都市と西洋の都市は性格が異なることに注意。(さらに羽仁五郎などによると、都市から民主主義が成立することになる)

・10−13世紀の十字軍遠征によって、クマネズミがヨーロッパに伝えられた。また当時は元の最後期。アジアとイスラム世界をつなぐルートが開拓されていた。14世紀のペストは中央アジアまたはアジア(1334年に中国で悪疫が起こり、これが伝播したのが原因とする説もある)で発生し、これらの交易ルートを通じて、ヨーロッパに侵入した(ヨーロッパ内の伝播も東から西へ、港町から内陸へとなっている)。参考:橋口倫介「十字軍騎士団」。バターフィールド「近代科学の誕生 下」によると、アジアの「侵略者」は黒海の北側を通ってきてので、しばらくの間このあたりは無人地帯になっていたとのこと。

・中世のヨーロッパは論理的・合理的に思考していた。当時のペストの原因は、悪い大気の噴出(地震や風など)や悪い星の並びの影響などと考えていた。これは当時の思考方法としては十分に論理的・合理的である。同時に中世の教会は占星術錬金術を禁止していた。これらの思考が発展するのはルネサンス以降になってから(コペルニクスニュートンが科学者であると同時に占星術師であったことに注意。またヘルメス文書が盛んに読まれ、アリストテレスに代わって(彼は12世紀にラテン語に翻訳されてから流行した。上記の「薔薇の名前」参照)新プラトン主義がはやるのも15世紀以降

・ペストの猛威によって起きたできごと。ひとつは死の可能性に直面した人たちの改心の運動。鞭打ちを路上で行いながら巡礼する運動。最初は好意的に受け入れられたが、略奪や暴力行為が目立つようになって、教皇から禁止令がでて終焉。もうひとつは、ヨーロッパに人によるユダヤ人、イスラムの人へのキリスト教徒による迫害、虐殺。ペストの蔓延が彼ら(異人)の陰謀だという考えによる破壊行為。前者はのちの宗教改革につながり、後者はのちの魔女裁判につながる(「薔薇の名前」の時代にも異端審問と魔女狩りはあったが、大量の死者をだしたのは16世紀になってから)。

・疫学的な考えに基づかない感染者の隔離も行われた。実効に乏しく、かつ彼らを差別する温床になった。

・12世紀からめだつようになった封建制社会制度の解体は、ペスト流行によって加速されることになった。たとえば、廃墟になった村の土地を獲得してのし上がったひとがいるとか、旧来の知識を教える教授がほとんどいなくなってしまって若い教授が大量に生まれたなど。人口減が人の交通を促進することになった。それはホリゾンタル(左右、水平)なものと、ヴァーティカル(上下、下剋上)なものの両方で。

・その後、ペストは300年置きに大流行を繰り返した。17世紀の流行はデフォーの「ペストの年に関する記事」を生み、19世紀末の流行はトーマス・マン「ベニスに死す」を生んだ。病気文学、悪疫文学の系譜を見つけることができる。参考:スーザン・ソンタグ「隠喩としての病」
 経済史・科学史・思想史を考えるときに、14世紀のペスト流行は面白い視点をだす。
 さらに現在においても、インフルエンザのパンデミック(ある感染症や伝染病が世界的に流行すること)や、ニセ科学陰謀論の批判など、関連する問題をいくつも見つけることができる。