odd_hatchの読書ノート

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金子光晴「ねむれ巴里」(中公文庫)

 前作「どくろ杯」では、森三千代と巴里に抜けようというところ、上海にカウランプールほかで道草を食うところまで書かれていた。ここでは、先に送り出した森三千代を追って、シンガポールからインド洋にでる貨物船に乗船するところから始まる。そして約2年間の巴里暮らし。

 この生活は何とも凄絶をきわめ、二人してほぼ金を持たず、最下層の安いホテルや下宿を渡り歩き、定職はなく怪しげなアルバイトで小銭を稼いでは即座に飯に消え、寒空のなか金子は上海のやす靴を修理する金を持たず、着たきりのモーニングを身にまとって、地下鉄にものらずにさ迷い歩くのである。彼の前にあらわれるのは、同じく金のない貧乏留学生か大陸浪人か。1930年の巴里はアメリカで始まった大不況を受けて、失業とインフレが進行中。移民や留学生はことごとく馘首され、アルバイトの口はなく、街角で画を売れば官憲が追い払うという仕儀である。それはもちろん巴里の住民も直撃していて、いっせいに下層に落ち込んでいるのであった(ガスカール「街の草」を参照)。とはいえ金子のような根っからの不良となると、巴里の住民と角突き合わせるまでの気概を見せる愚は侵さず、在仏日本人の似たような連中を相手にするのである。すると、実家からの仕送りを即座にバカラですってしまう男や、絵の勉強にきたはずが日本料理や中華料理の料理人として日銭を稼ぐものもいれば、日本人コミュニティのメディア担当をするつもりでいながら結果として詐欺をする男もいるし、怪しげな友人知人の間を泳ぎ回って人を売り結核を直すつもりもなく微熱とたちの悪い咳の止まらない男もいるのである。そういう連中についていくと、老醜を隠すことも困難なのに厚い化粧の顔で「伯爵夫人」をなのり、上流階級の有閑マダムから金を巻き上げようとする元娼婦のフランス人や、家出娘がジゴロに引っかかって子供を産むもすぐさま捨てられ掃除婦として生きるしかない中年女などに会うことになる。ここには乞食のことが書かれていないが、それは乞食と金子の生活に差異がなく、語るに足る発見をしかなったからであろう。
 およそ自分のことは語らず、人のことばかり語っているのであるが、この書の主人公は巴里という都市であると知れる。この都市、なるほど15世紀以来気に入らない王侯や政権ができるると、「叛乱は市民の義務だ」といって街頭で示威行進するのであるが(金子のいた数年後にも起きている。久生十蘭「十字路」を参照)、平時となると、一斉にナショナリズムのうちにこもり、貴族の名前を聞くと普段は見せない愛想をみせるが、異邦人と貧乏人は冷たい。ただレイシズムはそれほどないと、金子は書いている。そういう冷酷で酷薄な場所。それでいて、この都市は芸術を生み出し、消費文化を生み出し、ヒューマニズムを生み出した。そのようなヨーロッパの歴史と実績と未来がある。そこに魅入られる田舎者は、国内の家出してきた田舎娘から海外の小銭を持った田舎紳士までを引き付ける。この町に住み、芸術や歴史やヒューマニズムをなぜか自分と同一化するようになると、すさまじいスノッブと同族嫌悪を表明する人間を作り出す。その種の田舎者は、田舎に錦を飾って、巴里がえりであることを自慢し、肩書にする。
 まあヨーロッパの中心とでもいいたげな巴里の都を下から覗くと、輝きすら幻滅にみえ、栄光は恥辱にまみれ、非凡が凡庸のきわみにみえるわけだ。そのような相対化した見方を可能にしたのは、金子のすさまじい貧乏暮らしにある。40年の時を経ても、苦みと寒気を催す経験と本人がいっているように、彼らの貧乏暮らしにはユートピア的な楽天さも祝祭的な歓喜もない。それでもなお、おどろくのは森三千代の能天気さというか物事に動じない姿勢。なるほど異郷や逆境において、女というのは生活をつくり、自身をたくましくするのである、と感嘆するしかない。
 そんな彼らも1931年に帰国の途に就く。それは次巻「西ひがし」にて。
金子光晴「西ひがし」(中公文庫)