大正教養主義のころから読書術はいろいろ書かれてきたが(三木清「読書と人生」(新潮文庫))、80年もたち、日本人が読書をしなくなると(明治維新のときに外国人は日本人の識字率の高さに驚いたと日本スゴイ系の番組でよく言われるが、21世紀にはそんなことはいえない)、読書する側も勧める側も劣化したな。というのは読書する前の感想。読後は、なるほど教員養成を担当している教授が21世紀の大学生向けに読書指南をするとなるとこのレベルになるのかという納得。
とはいえ、すでに数千冊を読破した読書の中級者としての俺が読むとなると、いろいろと文句をつけたくなる。梅棹忠夫「知的生産の技術」などと同じような不満が現れてくるのだ。なので、今回は本書のサマリーはつくらずに(だって、読書のノウハウを独自に作ってきて、本書や類書とそれほど違わないところに落ち着いているからねえ)、文句のところを書くことにする。
1.読書の目的を人格形成に向けているが、これでは不十分。ドイツの教養主義は人格形成の先に、道徳や正義の実践を目指していたのだが、そこをすっぽりと抜かしてしまうのはよくない。本を読んだうえで、生活や仕事や社会の不備・不正義などにどう対処し、虐げられたり貧しさに貶められている人たちにどう向き合うか、そこまで考え実践の訓練をするのが教養主義でしょ。
2.だから、読書の目的は、自分の判断や決断の質を上げ、生活や仕事や活動@アーレントの質を上げ、正義や道徳を実践するところにあると思うのだ。個人で完結しないで、他者と交通@マルクスするときのツールやノウハウとして、判断や決断の根拠を読書を通じて作っていく。整理していないが、そんなふうに考えている。
3.読書のノウハウ(「力」などという流行り言葉は好かない)を培うために、文庫100冊新書50冊を目標に掲げる。ただしエンタメ本を除く。この著者の主張には異論があって、ステップを経る必要があると思う。すなわち、完読する技術と持久力をもつためにエンタメ本50冊を読むのが最初のステップ。つぎに基礎教養になるような100-200冊(著者の文庫100冊新書50冊で、まあOK。ラインナップには以下のように文句がある)が次のステップ。そのあと、大学の専門以外の学問のアウトラインをしるための2-300冊。ここまでくると詳しく知りたい分野がはっきりしてくるので(複数もっていたい)、専門書にむかう。だいたい500-1000冊も読むと、メンター抜きで読書をするようになると思う。本書は、入門から基礎訓練までを描いているので、その先もおおざっぱに示してあればよかった。基礎訓練以降の読書は、花村太郎「知的トレーニングの技術」が参考になる。
(備忘のために。1980年までは、4年間の大学生時代に、積み上げたら身長の高さになるくらいの新書を読むべきという目標が、学生ではある程度共有されていた。)
4.ジャンルや内容によって読書の仕方は異なる。書かれていることをその通りに実行する参考書やマニュアルと、書かれていることを理解して批判する専門書や啓蒙書と、ストーリーや人物に着目する小説やエンタメでは読書の方法や意識の指向性を変えなければならない。この違いを書き分けている読書論やハウツー本はまずみたことがない。
5.読書の周辺に関するノウハウが不足。空いた短い時間の読書と、ある程度の長さの時間を確保しての読書で読み方は異なり、本の選択やメモの取り方が変わる。本にペンで線を引く書き込みを行う、付箋を貼るは昔からのノウハウ。俺は久しくやらなくなった。かわりにノートやPCにメモを書くようにしている。俺は、読み終えた本は処分するという考えだから、次の所有者のことを考えてそうしている。著者は本を捨てないようだが、老年に至ったとき所有をどうするかは切実な問題になるので、体が動くうちに考えておいたほうがよい。こういう言及が欲しいね。
(追記 次に何を読むかの情報を収集することは大事。新聞や雑誌の書評、さまざまな広告、ネットの評判、メンターや友人の推薦、書評誌やサイトの定期的なチェックなど。小説では教科書の文学史が参考になった。かつては新書や文庫で推薦本を集める者が定期的にでていて、そこに載っているものを片端から読むのがよいトレーニングになり、読書の方向を掴めるものになった。かつては文庫や新書の目録を書店でただでもらえて、それをくりかえしパラパラと見ていくと次に読みたい本が自然とリストアップできた。)
6.というのも、7のアウトプットをすれば、大多数の本は読みなおす必要がなくなるので。
7.本書に欠けているのはアウトプット。1や2で書いたような読書の目的からすると、本を生活・仕事・活動のツールとするとき、どのようにアウトプットを出すかは重要。線を引きメモを取るだけでは、読書は完結しない。サマリー、表・マップ、感想文、推薦文のようなアウトプットが必要。アウトプットは他人が見なくても構わない。いつでも参照できるようにしておけば、過去の読書のアウトプットを現在の読書のアウトプットに利用できる(参考文献とか参照とかに使える)。そのうえライフログになる。
参考: 読書の記録のやりかたとアウトプットの方法
(アウトプットで最重要なのはサマリー。何が書いてあったか、何を主張していたかを要約して記録するべき。感想はなくてもかまわない。詩もどきのあいまいな感想は有害無益。啓発された意気込みや決意を書くのも有害無益。気になる文章の引用も文脈をはずしてしまうので有害無益。)
8.とはいえ、読書を個人で完結するのは危険(独学はトンデモやニセ学問の暗黒面に落ちる危険もあるのだ)。本書にあるように、メンターを交えた読書会やコミュニケーションはいいツールだと思う。
9.最後の不満は巻末の文献リスト。「はかないもの」「生き方の美学」「ういういしい青春」「死を前にして信じるもの」というあいまいで、感情誘発的なカテゴリーがよくない。読書を個人的なことに限定して、他人や社会との関係をみることを誘わない。歴史書がない。科学書もない。「自分をつくり、鍛え、広げること」には不十分。「苦海浄土」「黒い雨」で厳しい現実に向き合えのあとに、ロック「市民政府論」、カント「永遠平和のために」、ウェーバー「職業としての政治」などをいれないセンスに失望。(2002年初出なのでいれられなかったが、マイケル・サンデル「これからの「正義」の話をしよう」は学生向けにはいいんじゃない)。
本書は、たぶん目次を作ってから、本文を埋めていった書き方をしている。たくさんの本を短期間に書くにはよい方法だろうが、著者の切実さや熱気がスポイルされてしまう。ノウハウと動機づけと説教とうんちくがランダムに並んで、要約が困難。知的興味を引くエピソードはないし、内容の関連がないので印象に残らない。これが21世紀の日本の教養主義のリアルなのか。寒々しい。
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(主張はひどくて参考になるところはまったくないが、渡部昇一「知的生活の方法」のほうがまだ読みでがあった。
[追記.渡部昇一「知的生活の方法」に読みでがあるとした理由を思いだした。大内兵衛が私費でマルクス主義文献の膨大なコレクションを作ったことが書かれていたからだ。それ以外の記述は無駄・無用。(とはいえ大内兵衛がコレクションを作れたのは、1920年代のドイツでハイパーインフレーションが進行していたから。ここはひっかかるが、1930年代のナチス時代に大量廃棄された可能性があるので、大内が日本に避難・疎開したと考えることにしよう。)]
[追記の追記.いっこ有益なアドバイスがあった。「本を買ったことと読んだことの記録を作れ」。このブログ全体がそのアドバイスを実践した結果。])