odd_hatchの読書ノート

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浜田義一郎「にっぽん小咄大全」(ちくま文庫)

 言文一致にかんする面白い記事を読んだ。2018年8月11日朝日新聞書評欄の座談会。すなわち、福沢諭吉が英国のスピーチをみて感激。スピーチで社会をうごかすために1875年5月1日に三田演説館を作った。福沢の演説を見た講談師の松林伯圓(しょうりんはくえん)がテーブルに花を置いて講談を行い、その伯圓の講談を東大の初代総長・加藤弘之がみて授業の仕方を工夫する。一方、三遊亭圓朝が一人でザブトンから動かずにしゃべるスタイルを作り上げた。これらの講談、大学の授業、落語の口演が速記されて出版される。その影響が二葉亭四迷坪内逍遥ほかの文学者にはいり、1890年代に言文一致の文体ができる。文学が言文一致の文体をつくりだしたのではなく、言文一致の文体が先にあって、文学がそれを模倣することによって近代文学が作られたことになる。この議論は柄谷行人日本近代文学の起源」(講談社文芸文庫)がやっている。柄谷の本では、講談や落語よりも官庁の文章の影響が大きいとされる。
柄谷行人「日本近代文学の起源」(講談社文芸文庫)-1
柄谷行人「日本近代文学の起源」(講談社文芸文庫)-2
 というような枕をもってきたのは、備忘のためであるが、もうひとつは落語のスタイルが明治の半ばになって確立したという事実。たとえば、大多数の日本人は義務教育を済ませたくらいなのだが、世間の知や人情の機敏をよく知っていたのは寄席の落語を聞いていたからだと説明されることがある。そのような道楽ができたのは落語のスタイルができてからのこと。しかも寄席が町中にあったというのはせいぜい東京ほかのいくつかの都市でしかなく(落語家の養成システムではたくさんの弟子を一度に育成できないし)、地方では寄席などなかった。そういうわけで、世間知や人情などの教育システムに寄席がなったことはない(さらに加えると、日本人の識字率の高さを誇る人がいるが、大正時代ころの徴兵検査では兵隊の学力の低さを軍の担当者は嘆いていたのだ。日本人が総体として優秀というのは神話や伝説の類い)。
大江志乃夫「徴兵制」(岩波新書)

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 さらに脱線をした。では日本人は口話による笑いをもっていなかったかというと、そうではない。内輪の席では小話、地口、謎解きの類で遊び、笑いあっていたのだ。戦国武将になると御伽衆という話術家を召し抱えていた(曽呂利新左エ門が有名)。それらの話は中世のころから記録されていて、日本の中世文学の泰斗が13世紀から19世紀までの笑話本を編集したのが本書(昭和37年1962年初出)。
 笑話集は好きでいろいろ集めていたが、本書はだめ。つまらない。笑えない。
 理由はいくつも思い当って
・権力批判がない
・セクハラ、パワハラの加害者が被害者を嘲笑
・社会的弱者(女性、子供、障碍者など)を嘲笑
・共同体に対する異人(田舎者、不粋者など)を嘲笑 など
 システムや共同体にこもってぬるま湯にあるものが、その外にいるものを馬鹿にし、虚仮にし、嘲笑するという図式が延々と続く。現代になぞらえれば、百田尚樹「幸福な生活」(祥伝社文庫)みたいなのを読まされていることになる。日本人の愚劣さ、度し難さはこういうところに現れるのだなと、途中で巻を閉じた。

 

 日本人の名誉のためにいえば、日本古典「中世なぞなぞ集」(岩波文庫)は面白い。笑える。これは鎌倉から室町前期ころまでのなぞなぞを集めたもの。貴族や僧侶、上流武士などの知識階級が競作したもので、知的な楽しみがある。節度をもっているので、セクハラ・パワハラとは無縁。こういうスノッブな階級やサロンを実行できる粋な人々は、鎌倉政権の誕生で京都から失せた。できのいい歌集は生まれなくなり、知識人文学も消えて、最後の残差がこのなぞなぞ集なのかと暗然とする。
<参考エントリー>
堀田善衛「定家明月記私抄」(ちくま学芸文庫) 
堀田善衛「定家明月記私抄 続編」(ちくま学芸文庫)