odd_hatchの読書ノート

エントリーは3200を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2024/11/5

岩崎允胤「ヘレニズムの思想家」(講談社学術文庫) 他者・公共空間・権力を考えない哲学は必然的に堕落する。

 これまでに「ソポクレス全作品集」、吉田敦彦「オイディプスの謎」(講談社学術文庫)、田中美知太郎「ソフィスト 」(講談社学術文庫)を読んできた(それ以前にプラトンソクラテスの弁明」なども読了)。さらに古代ギリシャに当たりをつけるように、本書を読む。しまったあ、と思ったのは、本書が扱っているのはアテネが独立を失ってからの時代。さらにアテネは古代思想の中心地ではない。哲学者は地中海東部の諸都市に分散するようになっていた。というわけで、エピクロス派やストア派、懐疑派の思想家の名前や著作にはほとんど触れないで感想を書く。


 BC400年代のアテネの全盛期は直後のペロポネソス戦争の敗北でおしまいになり、そのあと、アレクサンドロス大王マケドニア王国によって占領・支配される。ここで民主制は終了。以後は地中海貿易の拠点から外れ、商工業も衰退していく。マケドニアは圧政をしき、ギリシャ人に政治的自由を与えなかった。そのことがギリシャの思想文芸にも影響を与える。本書には載っていないが、ディオニソス祭がなくなり、悲劇喜劇の上演もなくなったのだろうなあ。
 BC400年代、とくにペリクレス時代をみると、特長は、1.ポリス的自由は奴隷の村債を前提、2.真理の探究、3.科学的探究との連関、がある。
 BC300年代以降のヘレニズムの思想をみると、
1.ポリスを喪失した抽象的諸個人の哲学。心境の平静と不動心がテーマ。個人と人類を対象(ということは公共空間や政治を問題としない。抽象的空想的国家イメージでコスモポリタニズムを空想)。支配や圧政に抵抗する思想はない。
2.哲学の目的は真理の探究ではなくなる。生活法の探究。
3.科学的探究から分離。神なしで説明しようとはしている。
 メモしておきたい思想家はエピクロスくらい。彼の原子論は近代科学のそれに似ているので、参照されることはあるようだ。でも著者によると、ヘレニズムの思想は「今日の思想としては成り立ちえない」とのこと。後世への影響でも、ルネサンスから近世の科学者やユマニストをあげるくらい。17~18世紀の科学革命以降はまず登場しない。上の時代に読まれたのは、彼らの文章がラテン語の勉強のために使われていたためかしら(たとえばキケロなど)。

  

 こうしてみると、哲学(というか「人間とは何か」「世界の根源は何か」を考えること)では、政治と国家を考えることが必須であると痛切に思った。〈この私〉の個人と類的存在としての人類だけを考慮の対象にすると、間にある他者・公共空間・権力などがすっかり抜け落ちてしまう。その結果、抽象的空想的な思考にはまって隘路におちこんだり、〈この私〉の存在理由や存在根拠にすっかり懐疑して〈死〉に親近性を持ったり、他人の存在を軽く考えて冷笑や自己責任で突き放したりする。そして現在の権力を批判する力を失い、権力に追従したり翼賛したりする哲学になってしまう。そういうのは19世紀末から20世紀の全体主義運動でさんざん見てきたものだが、始まりはヘレニズムにあったのだね。当時のアテネや周辺の都市国家が巨大な帝国に飲み込まれ、政治参加の道を閉ざされたことが原因だろう。現実の圧政にどう対処するかが哲学や思想を強くする力になるのだが、アテネギリシャ都市国家の人びとはそれを放棄したのだった。ヘレニズムの思想家は、これではいけないという他山の石です。
 AD5~6世紀にはヘレニズムの思想の系譜はすっかり消えて、キリスト教哲学に代わってしまった。初期キリスト教の哲学には、ローマやユダヤ人の弾圧に抵抗する精神があるので、同時代のヘレニズムの思想より学ぶところがまだ多い。
 というわけで、講談社が1970~1980年代に出版した「知的遺産」シリーズの一冊をものすごい勢いで読み飛ばしてしまった。本書は1982年初出。
 

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