25歳で「浮雲」を書いてから、しばらく創作から遠ざかっていた(のだったっけ?小田切秀雄「二葉亭四迷」(岩波新書)を読んだのがほぼ半世紀前なのでよく覚えていない)二葉亭、14年後の39歳になってふたたび筆を執る。あいにく二葉亭自身と思われる書き手の「私」は自分がやっていることに自信がない。それは39歳にしてすでに老けこんでしまったと自認しているからであり、自分のことを「価値がない平凡な人間」であると自己規定しているため。そう考える理由はたんに年齢だけではなく(この時代の40歳は一家を構えていて、息子娘は成人し、家業をそろそろ継いで隠居してもいいかもと考える時分)、何事かをなしたという実績をもっていないため。文士の貧乏暮らしは厳しいと〈私〉は嘆くのであるが、文士という職業をみれば、立派にたつきを立てている人はいる。二葉亭がその一員にならないのは、彼が起こした西洋文学を模したものとしての日本文学には十分な読者がついていないからだった。西洋文学にベースを置いた文学で生計が立てるようになったのは漱石からか? 若いときの目論見もおよそ20年たって十分な成果をあげていないとみる。この年齢で、老けこみやあきらめを自覚するのはそのあたりか。
なにしろ自分を無用の人とみていて、しかも他人に嘲られるのが常。そういう人が書き物をしようとしても、楽しいこと、面白いことなど浮かび上がるほどのこともない。どうでもいいこと、つまらないことしか書けない。自分の経歴を思い出して家族(祖母、父母、叔父叔母までで、いとこやこどもはない)の人となりを書くか、河かわいがった犬を思い出すか。とても興味を持てそうな題材ではないので、ものすごい勢いでページをめくってしまった。
彼の半生の振り返りで注目したのは、中学?を卒業するにあたって将来を決めかねていた時、二葉亭は都会にでていく。それも当時盛んだった自由民権運動に感化され政治学をやるためだった。そして都会にでて挫折しもっと優秀な人たちに劣等感をもち、専攻を変えてしまう。子規もそうだったし、二葉亭もそうだった。漱石は日本という田舎から世界の都会の英国に渡った。彼等三人は日本の教養主義者の最初の人にあたる。(同じ渡航組であっても森鴎外はドイツの教養主義を身に着けたが、日本の教養主義者にはならなかった。)
二葉亭は、モッブ(@アーレント)、ダス・マン(@ハイデガー)を生きたたぶん最初の日本人だった。モッブやダス・マンの在り方は漱石の長編やトーマス・マン「ブッデンブローグ家の人びと」などに書いたので繰り返さない。そういえば、冒頭からしばらくの詠嘆と世間の無知へのうらみつらみは、トーマス・マンの「トニオ・クレーゲル」1903に似ていると思った。インテリと大衆の懸隔と互いへ向けた憎悪というのは20世紀初頭にいっせいに世界的な認識になったのだね。
二葉亭は本書で「私には文学はわからない」という。二葉亭が書いたものをみると、この人は生来の文学者とはみえなくて、上の挫折や劣等感を払拭するために文学を選んだ人のよう。遅疑逡巡はあっても終生文学からは離れない。彼にとって文学は自分をまもるための鎧や城壁のように思えた。身にまとっている限り、世間からの嘲りが突き刺さらないのだ。代わりに鎧や城壁の中で腐食してしまった。
この感想では小説とは関係のないことはいつまでもくっちゃべれるけど、内容には全然触れなかったな。とにかくつまらないんだよ。本人もつまらないと思うが、それでも細部を書かずにいられないのは、ある種の行動性向があるせいだろうな。俺も持っているのでよくわかる。ところが本人の思惑とは別に、読者は熱狂したとのこと。身辺のどうでもいいことを書き、煩悶・苦悩・逡巡などの〈私〉のダメなところをさらけだす。そういう告白や自虐はこれまでなかったせいだ。おかげで、表現規制が進み、政治や社会問題、思想問題を書けなくなった日本の作家は二葉亭の「其面影」「平凡」のマネをしたのではないか。〈私小説〉の始まりのひとつはこれなのだろうなあ。