1964年が特異な年になる理由は、ジャイアント馬場が重大な決断を迫られていたから。日本人離れした肉体を持った若者はそれゆえに国内に居場所がなく、力道山の日本プロレスを経てアメリカに「武者修行」にでる。そこでは日本社会のような抑圧はなく、巨大な肉体はプロレス業界で成功した。当時、もっとも活況のあったマーケットであるアメリカ北東部でメインイベンターになる。ギャラは日本の百倍以上。もっとも高名なプロモーターやロードマネージャーはアメリカ定住を勧める。一方、前年に日本のプロレスのカリスマである力道山が急逝。そのために早い帰国を要請される。ギャラや地位の保証はない。どちらを取るか。当時26歳の若者は考える。
ジャイアント馬場の生涯はいろいろなところで読んだり、見たりしてきたが、たいていアメリカ遠征時代はあっさりと書かれてきた。そこを取材して詳述したのが特徴。あわせてアメリカプロレス史の補足にもなっていて、しらないことがたくさん出てきた。これまで、
スコット・M・ビークマン「リングサイド」(早川書房)
斎藤文彦「フミ・サイトーのアメリカン・プロレス講座 決定版WWEヒストリー 1963-2000」(電波社) 2017年
斎藤文彦「レジェンド100―アメリカン・プロレス伝説の男たち」(ベースボールマガジン社) 2018年
ルー・テーズ「鉄人ルー・テーズ自伝」 (講談社+α文庫)
等で知っていたアメリカプロレスの歴史に本書で追加すると
・19世紀からのレスリング興業はシリアス。盛り上がりに欠け、膠着状態が続くつまらないもの(というのは偏見や思い込みではないか)
・1930年代にエンターテインメント要素を加える。マットレスリングとサブミッションの攻防を、ベビーフェイスとヒールの戦いにする、殴る・蹴るを加える、見栄えの良い技を使う、異形の者をレスラーにする、など。現在のギミックやストーリーはこの時代からある(そのためにギャンブルの対象にならなかったので、全国的な組織はできなかったと思う)。このスタイルはしばらく続く。力道山がハワイやサンフランシスコで学んだのは当時のスタイル。
Abe Coleman - The innovator of the Dropkick in Wrestling.
— Allan (@allan_cheapshot) 2018年2月11日
He learned the move after seeing some kangaroos during his trip to Australia back in 1930. pic.twitter.com/swj0PaEC3p
・敗戦後からのテレビ中継でプロレスは全国的な人気になる。特に女性ファンが熱狂して支持する。
・50年代なかばから野球やフットボールなどの中継が始まって、全国ネットのテレビはプロレスから撤退。全国的な人気のあるレスラーはいなくなる。地方のプロダクションは地元テレビ局を宣伝に使う。ローカルチャンピオンの乱立。
・1960年代頭にプロレスの革命がおきる。バディ・ロジャースとフレッド・ブラッシー。リング上の過剰なパフォーマンス、試合前後の毒舌とあおり(著者の指摘にはないが彼らのバンプアップされた逆三角形の身体作りも重要だと思う)。とくにバディ・ロジャースは大人気で東部エリアのヒーローになる(ブラッシーは西海岸エリアの人気者)。
www.youtube.com・他のレスラーも派手で見栄えの良い技を開発し、スタンドとマットのレスリングにメリハリをつけるようになった。
馬場がアメリカに行った時期はまさにバディ・ロジャースの全盛期に重なる。馬場は繰り返しロジャースの王座に挑戦するメインイベンターの一人になる。それまで大男のレスラーはいたが(フレンチ・エンジェル、スカイ・ハイ・リー、ブル・カリーが有名)、でくの坊。でも馬場はアスリートの能力が高いので人気が出た(しかしレスリングとサブミッションを知らないので、シューターやフッカーなどの実力者からの評価は低い)。馬場の前には沖識名、グレート東郷、キンジ・シブヤ、同時期にマサ斎藤、アントニオ猪木、大木金太郎、のちにキラー・カン、佐藤昭雄などの日系・日本人レスラーがアメリカにいたが、つねにメインイベンターになり世界チャンピオンに挑戦できる馬場ほどのポジションにつけたものはいない。加えて、馬場はプロレス革命の起きた60年代前半のスタイルを身に着けた。なので、帰国したときに、50年代スタイルのレスラーとは異なる動きに観客は魅了された。
馬場が帰国を決意したのは、日本プロレスの興行をしきっていた田岡和雄の要請にこたえたため。以後いくつかの紆余曲折があって独立し、日本テレビの応援をつけてメジャー団体にした(1972年)。もし、当初の予定通り、アメリカに定住し、40歳前に引退してハワイに隠棲していたら、日本のプロレスはぜんぜん違ったものになっただろう。
という妄想は楽しいけど意味はない。1960年代の馬場はたしかにアスリートであって、俊敏な動きで見せる優れたパフォーマーだった。ただ、彼がアメリカの一流の仲間入りをしたか、というとどうかしら。日本人レスラーや日系レスラーの役どころは、古典的な悪役か怪奇派・サイコパスかマスクマン。最新のシンスケ・ナカムラでさえもそう(クルーザー級・軽量級は日本と同じキャラクターでいられるけど、主流ではない。TAKAみちのく、イタミ・ヒデオなど)。アンドレ・ザ・ジャイアントと同じ使われ方をしたのだろうな。そう思うと、1990年代後半に馬場とアンドレのタッグが実現したというのが何とも因縁深い。馬場はアンドレが出てくる前の大男キャラだった。
(この時代の面白いエピソードは、ジャイアント馬場がフレッド・アトキンスのコーチを受けたこと。ジムに通っていたのかと思っていたが、馬場はアトキンスの家に住み込んでいたという。そのために毎日アトキンスのコーチのもとで厳しい練習をしていたが、試合会場への送迎とTV向けアピールはアトキンスが受け持っていた。会場の行き帰りの自動車の中で馬場は寝ていたという。アメリカのサーキットでは選手が自費と自分の運転で移動するのが通常だったから、馬場の処遇は珍しい。それだけ儲けるタレントであったということだ。日本プロレスに帰国したあと、ほかの選手やスタッフは電車で移動していたが、馬場だけは寝坊してタクシーに乗って会場入りしていた。高速道路が不十分だった時代、時に数時間もタクシーにのる。これもアメリカの流儀を馬場が日本に持ち込んだためだし、そのようなわがままを貫けるほどのスーパースターだったというわけだ。自分で会社を興した1972年以降は大型バスを購入して移動するようになった。)
2021/01/19 柳澤健「1964年のジャイアント馬場」(二葉文庫)-2 2019年に続く
2021/1/31の記事
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