odd_hatchの読書ノート

エントリーは2600を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2021/9/25

御園京平「活辯時代」(岩波同時代ライブラリ)

 日本に映画が入ってきたのは1896年、神戸。試験上映をしたら好評だったので、興行師が現れた。あたった。
 最初期の映画は二種類あった。

「キネトスコープは、機械の大きさがオルガンくらいで、腹部が三つに分けられ、上部に原紙を挿入、中部に発電機、下には送電機を装置し、背部に蓄音器と螺旋機とが具えられたもので、見物客は機器の前の踏台にのり、一人ずつ交替で窓から覗き見る。スイッチを入れると蓄電池から電流が流れ、五十フィートばかりのフィルムが自動的に回転し、画面が活動を始める。人物が現れ、手に持った銃で左右をパンパンと撃って、すぐオシマイ、こんなものにも見物人は他愛なく感心した。(P3)」

というもの。覗き見式はしばらく残っていたと見え、松本泰「清風荘事件」(春陽文庫)に登場する。
 もうひとつは

「翌明治三十(一八九七)年一月、京都の稲畑勝太郎によって、フランスのオーギュスト・リュミエール発明のシネマトグラフが神戸に輸入され、これに前後してエジソン発明によるヴァイタスコープも入ってきた。これらはキネトスコープが一人ずつ見る覗き穴式なのに比べて、白布に投影された写真を一度に多数の人が見られる(P4)」

というもの。個人が覗く方式と、大人数がスクリーンを見つめる方式があり、後者のほうが利益があがるので、上映方式はこちらに集約される。当時はフィルム感度が悪くて何が写っているかはっきりしないし、無声では筋がわからないので、最初の興行のころから説明係がついていた。1910年ころにはストーリー映画に人気が集まったので、説明係は弁士に格上げされ、映画よりも弁士の人気で興収が変わるほどだった。ポスターには弁士の名前も記され、弁士を選んで上映館を選択することもあったという。
 人気職業になったので、

「大正二(一九一三)年八月、現在の東京京橋フィルムセンターの場所にあった日活本社二階に「日活弁士学校」が開設された。中島錦五郎博士を所長とし、説明者東郷雷州を教師として、一般から志願者を募集した(P39)」

という。
 本書には、弁士の話術が収録されている。一部を引用しよう。弁士名と映画タイトル。

徳川夢声「狂える悪魔」・・・ 恐ろしい苦悶、はりさけるような苦痛、そして遂に、ジーキル博士は、この世の者ではなくなりました。ワンと泣き伏したのは可憐なるミリセントでありました。ジーキル博士が生前に犯しましたる恐ろしい罪業の数々も、あわれミリセントが流す美わしき涙によって、つぐなわれて余りあったのであります。(P133)
大蔵貢「幌馬車」 ・・・ 山を越え、エンエン迂曲して長蛇の如くカヴァド・ワゴンの一隊は、希望を抱きながら前進また前進を続けてゆくのであります。ウィル・バニオン大尉の胸の中には西部開拓の夢が片ときの間も去ることはなかったのであります。(P133)

 これらを読むと、弁士は1-2時間の映画すべてにわたって台本?を作って記憶し、映画のシーンに合わせてタイミングを計り、聴衆の反応を見てアドリブをいれていることになる。フィルムと一緒に来るはずのシノプシスがなければ、映像を見て話しをこしらえる(なのでまったく別の物語になることもあったそうな)。新作映画は次々来て、旧作は顧みないことになっているから、常に台本作成と練習が必要だった。おそらく得意の映画数十本のレパートリーをもっているとなると、驚異的な記憶力が必要になる。映画館の収容者数は数百人程度で、マイクはなく肉声。そのために喉の鍛錬もなまってはならない。なるほど人気弁士が勤め人の年収以上を月収にしていたのもうなづけ、志願者が多かったのには理由があった。
 弁士はモーニングか羽織袴を着て演説台を前にしゃべったという。これはすでに確立していた講談のスタイルそのまま。その講談は言文一致運動に影響を与えていて、速記本が売られて、近代日本語の文体を作った。その影響が映画の弁士にも受け継がれる。

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 しかし、1920年代にトーキー化を目指した技術開発が始まる。日本では1926年に最初のトーキーが出た(ノイズだらけで不評)。1929年には輸入物はトーキーにほぼ切り替わっていた。国産トーキーとされるのは五所平之助監督の「マダムと女房」1931年。また1931年には映画「モロッコ」にスーパーインポーズ(字幕)がついた。またサウンドトラックの音質が上がったので、伴奏も楽師も不要になる。そのため1928年ころから弁士と楽隊が解雇されだす。1932年の弁士による大規模ストがあったが、それ以降職業そのものがなくなった(上の弁士学校の初期の入学生は40代になって路頭に迷ったわけか)。
 一部の弁士は転業して、ラジオタレントや漫談家になった。中には成功した者がいる。たとえば大倉貢、徳川無声牧野周一大辻司郎古川緑波(この人は記者)など。戦後の放送芸能の一部は弁士上がりが担っていた。

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 本書で弁士の隆盛と没落(rise and fall)を見た。いくつかの記録は、無声映画体験者の回顧談に重ねることができる。とくに淀川長治の回想。あいにく、本書のテキスト部分はマニアの覚書・書付くらいの内容で、映画の記録としては不十分(実際、岩波書店が出す前は個人出版だった。本書の目玉は無声映画のポスターやパンフレットなどの写真)。でも、上のように積極的にほかにリンクを張っていくと、この国の20世紀前半の風俗・芸能・芸術を大枠で把握する助けになる。読者はどこまでリンクを張れるか、頑張ってみよう。
 例えばこんな具合。

活弁時代では映画館が独自に十数人規模で楽隊を集めていた。そのなかには指揮者の山田耕筰がいた(若いころにはこういうこともしていたのか!)。トーキーになって映画館は楽隊を解散するが、いっぽう映画制作会社は伴奏音楽を録音するために、独自にオーケストラを編成した。たしか東宝、松竹が持っていたと思う。で、映画を通じて西洋古典音楽に慣れ親しんだ聴衆が生まれて(ほかにSPレコード収集でファンになったものがいる)、山田耕筰近衛秀麿らが学生や楽隊メンバーを集めて最初のプロオーケストラ「新交響楽団」を作る(1926年に第一回演奏会)。このあたりの事情は堀内敬三「音楽五十年史 上下」(講談社学術文庫)だとさわりくらいしか書いていないので、本書で補完できる。
2012/08/09 堀内敬三「音楽五十年史 上」(講談社学術文庫)
2012/08/08 堀内敬三「音楽五十年史 下」(講談社学術文庫)

無声映画の時代に、チャップリンやアーバックルのコメディ短編をあつめて「ニコニコ大会」なる上映会があった。この「ニコニコ」は当時あった雑誌のタイトルからとったもの。すなわち、牧野元次郎が始めた「三年貯金」「ニコニコ貯金」(いまの定期積立)の宣伝誌。牧野は荒俣宏のたしか「商神の教え」に登場。奇矯な人だったらしい。

・連続活劇「ジゴマ」がかなり詳しく紹介される。フランス産の悪漢活劇に日本の観客は熱狂した。久生十蘭「ジゴマ」(中公文庫)の参考になる。

・たまたま開いた本にあった情報。都筑道夫「昨日のツヅキです」(新潮文庫)から。

「お年よりの映画ファンから、むかし尾上松之助無声映画で、字幕の人名が誤って出たときに、「ただいま、字幕に□□と出ましたのは、△△の間違いでございます」と、弁士が訂正したので、大笑いした、という話を聞いた。(P265)」

<参考エントリー>
竹中労「鞍馬天狗のおじさんは」(白川書院)