8月15日正午はとても暑く、校庭や工場などに集まってラジオから流れる「玉音放送」を聞き、その後嗚咽する者がいたりしたが、多くのものは虚脱した(ちかくに朝鮮人部落があるものはそこから流れる祭りの音に驚いたりもする)。以来、8月15日は慰霊の日として祭儀をあげるようにしたのである。というのが、国民的な記憶であるが、実際はどうだったのか。実は当日の記録はとても少なく、検証は容易ではない。しかし検証すると、後付けでつくられた「歴史」であるらしい。歴史家による検証過程の記録。
八月一五日が来るたび、先の戦争のことが語られる。だが、終戦の“世界標準”からすれば、玉音放送のあった「八・一五=終戦」ではなく、ポツダム宣言を受諾した八月一四日か、降伏文書に調印した九月二日が終戦の日である。にもかかわらず、「八・一五=終戦」となっているのは、なぜか。この問いに答えるべく本書は、「玉音写真」、新聞の終戦報道、お盆のラジオ放送、歴史教科書の終戦記述などを取り上げ、「終戦」の記憶がいかにして創られていったかを明らかにする。「先の戦争」とどう向き合うかを問い直す問題作である。
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784480062444
簡単な経緯
1945.8.10 ポツダム宣言受諾会議。詔書作成開始、スイスとスウェーデンの大使宛発信
1945.8.14 詔書署名。停戦命令発信。アメリカに発信。日本敗北を宣言
1945.8.15 国民向け放送
1945.9.2 ミズーリ号上で降伏文書調印
両親から聞いた1945.8.15正午の記憶をメモする。父は中学生。勤労動員の作業を止めて、学校の校庭に整列して聞く。すぐに解散になったので、近くの川で水浴び。母は小学生。家にラジオがあったので(祖父が日露戦争の傷痍軍人で、優先的に配布されたという)、近所の人が集まって聞いた。
序章 メディアが創った「終戦」の記憶 ・・・ 正午からの放送は「玉音放送」3分47秒だけではない。下村情報局総裁のあいさつがあり、「玉音」の後アナウンサーによる解説やポツダム宣言その他の読み上げがあり、全部で約40分ほどあった。アナウンサーの読み上げを記録・記憶して何か書いたものはほとんどいない。また各地でこの放送を聞いている最中の写真が新聞などに掲載されたが、どうやら後日の撮影、別の機会の写真、やらせなどであったらしい。
(戦争が劣勢になると、戦場・国内の映像記録はほとんどない。撮影する余裕や機材がなかったのか。日本人は外国人が撮影した映像で戦争を記憶しなければならない。)
第1章 降伏記念日から終戦記念日へ―「断絶」を演出する新聞報道 ・・・ 占領期には8/14または8/15にメディアが「降伏」「敗戦」を記事にすることはめったにない。講和条約締結後の1955年から8/15に終戦記念の特番や特集がメディアで行われ、9/2から「降伏」が消える。1963年に「全国戦没者追悼実施要項」が制定されてそれに基づく国家行事が行われるようになった。1982年に「戦没者を追悼し平和を祈念する日」制定が閣議決定された。最後のは戦前の記念イベントを呼称を変えて復活させるカルト運動の一環(古くは1952年から)。背後には靖国神社の国営化を目指す自民党の法案がことごとく廃案になり、かわりに閣僚の参拝が始まったことがある。これらの呼称変更などは、国民が戦争に「敗れた」「負けた」ことを直視するのを忌避したことを意味する。
(なので「玉音」に象徴される「天皇の聖断」神話に固執する。自分には、ポツダム宣言受諾に応じる条件である「国体の護持」はこれによって実行されたとみえる。)
第2章 玉音放送の古層―戦前と戦後をつなぐお盆ラジオ ・・・ 太陰暦を太陽暦に変えてから盆の日付に地域差が生まれたが、おおむね8月を盆をするようになり、ラジオは8月に盆の慰霊を感じさせる番組を戦前から放送した。ひとつは高校野球中継であり(神道的・軍事的比喩をのせて)、もうひとつは盆踊り番組。甲子園での英霊黙とうは1938年から行われ、戦後の8月15日の黙とうに引き継がれる。戦後は1953年から8月15日に終戦記念番組編成が行われ、1963年から全国戦没者追悼式が中継されるようになる。ラジオやテレビの中継によって、集団的な記憶が形成され、8月15日が慰霊と終戦を記念する日であると刷り込まれる。
第3章 自明な記憶から曖昧な歴史へ―歴史教科書のメディア学 ・・・ 戦後の歴史教科書記述を調査。スタンダードは8/14ポツダム宣言受諾、8/15国民向け放送、9/2調印。しかし小中では9/2の記述がないとか、世界史は9/2を終戦(世界標準の日付)とするなどねじれがある。また、新しい歴史教科書と創る会などの右翼の教科書では「聖断」記述を加えるなどしている。日本が8/15に終戦記念の報道・儀式をすることから、中韓も同日にステートメントをだすようになって「8/15=終戦」のイメージが強化されている。
おわりにかえて―戦後世代の「終戦記念日」を! ・・・ 戦後世代として、8/15と9/2を敗戦の日としよう。あと、丸山真男の「八月革命」を乗り越えよう。戦前と戦後の断絶を強調するのではなく、連続性があることのほうが大事。
(最後の戦前と戦後の連続性は雨宮昭一「占領と改革」(岩波新書)などでも強調されている。)
結論部分を先に佐藤卓己/孫安石 「東アジアの終戦記念日―敗北と勝利のあいだ」(ちくま新書) で読んでいたので、すでに知っている情報の再確認になり思ったほどのインパクトはありませんでした。
でも、8/15=終戦とするようになったのは1963年の閣議決定以降であり、イメージ付けは戦前から続くメディアによって行われていた、という点は重要。そして占領期が終わったところからすぐに戦前回帰をもくろむバックラッシュが始まっていた。「8/15=終戦」とするこれらの運動をみると、戦争被害と天皇の存在を強調することで戦争加害と責任をあいまいにしてきた。世界の標準からズレる日本独自の基準を作ることで、世界の視線・国外からの視線・被害者からの視線で戦争を考えることが少なくなるようにした。これに対する押し返しは重要。
(その際に、丸山真男がいうような解放や革命視点は脇に置いたほうがよさそう。そういう断絶はなかった。というか占領期の後半からずっと、戦前回帰が政治でも経済でも戦前回帰があった。)
戦争記念の日では8/6、12/7なども重要であるが、それが意味するところは8/15ほどには浸透していない。たとえば広島の原爆は占領期間中情報統制があり、その間ほとんどローカルな話題だった。それが国民全体に知られるようになるのは1952年以降。そこにビキニ環礁水爆実験の被曝があって、50年代半ばの原水爆禁止運動が起こるようになる。このような事実関係の把握でも、のちの幻想や神話による思い込みや偏見が生まれているので、このような検証作業は重要です。目からうろこの一冊。
<参考エントリー> アジアは終戦記念日をどうみているか。