odd_hatchの読書ノート

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フィリップ・K・ディック「暗闇のスキャナー」(創元推理文庫)-2

2018/07/06 フィリップ・K・ディック「暗闇のスキャナー」(創元推理文庫)-1 1977年


  

 もうひとつのやるせなさは、ボブ・アークター=フレッドにおきたことが、これもまたやるせないほど読者の現実に続いている。ボブは覆面麻薬捜査官の仕事をしている。彼の仕事が全体のどこに位置するのか、どのくらいの重要性をもつのかは、全く示されない。上司のミスターF(ハンク)は伝えないし、彼自身も全容(というのがあるのか?)を把握しているようにはみえない。そのうえ、ボブは麻薬にはめられただけではなく、所属する組織にもはめられている。別の目的達成のための捨て駒として使われる。それも、ドラッグで廃人になるのを把握し、症状の悪化を放置したうえで。そうしたのは、ボブが家族を解体して係累のいない孤独な存在であり、しかもある程度の知力をもっている(だから廃人になったあとも「指令」を実行できることが期待できる)から。そこまで社会や権力の歯車として使い捨てられる。このあり方はもまた救いがない。救いようがない。それが切実に思えるのは、読者の物理現実においても、自分が誰かを使い、自分も誰かに使われていて、その使っている誰かも別の誰かに使われていて・・・という階層構造(というかセミ・ラティスというかリゾームというか)にはめ込まれていて、それを抜けることはかなわない。せいぜい少し上にいくか、あるいは下を増やすかくらいにあがくことしかできることはない。しかもそうしたからといって、何かが変わることはないし、認識がひろがることもない。でも下に落ちていくのは簡単。都市や集合住宅地に住んでいると、ボブ・アークターにおきることは、身に沁みるほどのやるせなさを誘発し、自分のありさまに重なってくる。
 まあ、それは終盤のリハビリセンターに入って以後の話。それまでのジャンキーとの共同生活やドナなどの売人との付き合いにおいてはそんな共感はまず感じない。清潔感を失い、規律をもたず、まともなコミュニケーションができず、善と悪の区別がつかず、他人を危険に巻き込み、というような傍から見ると自堕落極まりない生活。PKDはあとがきで、「みんなと楽しく過ごしたかっただけの、道路で遊ぶ子供同然」が「大人になる代わりに遊ぼうとして」いて、「自分の行いのためにあまりにも厳しく罰せられた人々」といい、そのような連中と暮らしたPKDは「おれたちみんな、しばらくはすごく幸せだった」と述懐する。なるほど、彼らが執筆する間に(あるいはその前に)死んでしまった仲間の追悼というモチーフがすごくよくわかる。彼ら個人の追悼に加えて、1960年代後半から10年間のヒッピームーブメント記録としようとしたのもよくわかる(そのためか、創元推理文庫版の翻訳はとてもくだけた、俗語や若者言葉を使った文体になっている)。目の前の悲惨を逃れるための現実逃避という側面がとても強いのだ。それは作者にとってもだし、作中人物にとっても。たぶんそれは自由を謳歌するが、責任を取ろうとしなかったところかな。作中人物の中ではほぼ唯一「まとも(っていったいなに)」なドナも、ペプシコカ・コーラは盗んで飲むもの(空瓶を販売店に返して小銭を稼ぐ:というガラス瓶リユースシステムはこの時代まであった。アルミ缶がでてから、販売店は空瓶に金を払わなくなった)という反社会的な行為をする。ドラッグをやっていないのはハンクくらいだが、この男も得体が知れず、その冷酷さは共感をひきにくい。そんな具合に、子供と陰謀家ばかりであって、しかしボブの境遇(と彼をはめたシステム)には気分をめいらせる。しかしページを繰る手は止まらないという稀有な体験。


 なるほどこの小説は、PKDのSF作品の系列のなかにいれると、ぽんとひとつだけとびぬけていて、他に類例をみない。でも、普通小説、主流小説にまで広げると、ひとつの作品が浮かび上がる。1950年代後半に書かれた邦題「戦争が終わり、世界の終わりが始まる」。これも一つの家に同居するひとたちのいさかいとすれ違いの物語。そこには知的障碍者のジャックがいる。彼はイノセントでもって、それがゆえに人を傷つける。ボブ・アークターも同じようなものだ。彼は誠実に職務に励もうとするが、だれも救えないし、だれにも救われない。彼の周囲がジャックみたいな人達ばかりだから。これはつらい。
 SF的なイメージで言うと、ボブと同居するジャンキーのひとり、チャールズ・フレックのみた幻想が鮮烈。自殺するつもりでネンビタールをワインで大量に飲んだが、実は幻覚剤だった(家には大量のドラッグがあるので取り違えたのか、すり替えられたか)。ベッドで寝ている横に次元の裂け目から来た生き物が、彼の罪を書いた巻物を読み上げる。一万年も読み続けてようやく6歳のできごとになっている。ドラッグによる時間感覚の崩壊、ジャンキーの罪障感がよく書かれた名場面。
 1975年8月29日完成原稿SMLA受理、1977年出版。

    

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