odd_hatchの読書ノート

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フョードル・ドストエフスキー「地下室の手記」(光文社古典新訳文庫)-2 西洋的なものにアンチになるしかない地下生活者はなにもしないでおしゃべりばかり

2025/02/06 フョードル・ドストエフスキー「地下室の手記」(光文社古典新訳文庫)-1 19世紀のネトウヨ分析 1864年の続き

 

 後半。語り手の「おれ」はその当時に流行っていた西洋思想を俎上にあげる。彼の批判の切り口はロシアの神秘主義と、民衆と直接交通して彼らの在り方を見聞きしていたという経験から。インテリの机上の空論ではないリアルな感情が西洋思想に深く刺さると思っているのだ。

6.怠け者である語り手は「麗しく崇高なるもの」に飽き飽きしている。(かつては「麗しく崇高なるもの」を語り手は賛美していたというので、これは西洋の理想主義や啓蒙主義を指しているのだろう。語り手からすると現在(1860年代)賛美しているものは、ブルジョアディレッタント世俗主義者に見える。どれも反ロシアで、反民衆。)

7.この章は、啓蒙主義功利主義への批判。世の中には古典経済が想定する合理的人間(自己の利益の最大化のために合理的に判断して行動する)はいないし、最大多数の最大幸福を目指してもそこからこぼれ落ちる人(語り手のような怠け者とか)がいるし、民主主義の輸出は社会を混乱させ、いくたの残虐行為が後を絶たないように文明の進歩によって人間が道徳的になってなどいない。でも、チェルヌイシェフスキーのような社会主義者は合理思想と自然法則で水晶宮のようなユートピアを作ろうとしているが、そんなものに価値はない。人間の不合理な衝動や合理的でない自発的な欲求があることを理解しろ!

8.2×2=4の理性は合理的で道徳を求める欲求があるとするけど、実際には無目的・無方向の自発的欲求の方が大事。自発的欲求が人間を人間らしくしている。語り手はピアノのキーや対数表を嫌うが、それらは水晶宮を作る合理的科学駅思想の象徴。

9.人間は創造に従事する動物で、道を切り開くものだ。重要なのは目的達成のプロセスであって、それが生そのもの。目的を達成すること自体は恐れている。それが破壊と混乱の原因になる。それを人間を改造することで矯正しようとするのは反対。2+2=4の合理性を求める動物ではない。2+2=が5でもいいじゃないか。人間には苦しむことを求める欲求もあるのだ。苦しむことは意識の唯一の根拠。人間は意識を愛していて、いかなる満足を与えられても交換するつもりはない。(意識は不幸なのだが、同時に快楽の源にもなるということか。苦しむこと自体が崇高なことなのだ。この非合理的・神秘主義的な考えはどこから来ているのだろう。苦しむことを徹底することからドスト氏の友愛社会やユートピアが立ち現れてくるのかも。)
(追記 キリスト教ロシア正教から立ち現れてくるらしい。人類の幸福のために磔の苦痛を引き受けたキリストの苦しみを共に苦しむことによって「新しい人間」に生まれ変われるという考え。初期キリスト教の修道僧が荒野に一人で暮らしたり、中世の異端が荒野に人力だけで教会を建設したり、さまざまな異端が自分を鞭打ったりして、苦痛を引き受け、それを喜びとした。)

10.苦しむことを許さない水晶宮は「おれ」の願望にはないものだから、いらないし住みたくない。「おれ」が40年籠っている地下室があれば十分。「おれの願望を打ち砕き、理想を消し去り、もっと良いものをみせてくれるなら」、アパートに住んでやってもいい。でも「アパートのためには、レンガひとつでも運ぶような真似はしたくない」。(理想はあっても、自分で汗をかくことはしたくないという「おれ」と肯定するドスト氏。他人のやることにいちゃもんをつけて腐して目的を達成しないようにすることは一生懸命やる。それは自分を苦しめるから崇高な行為。でも、他人のために何かを作り上げることは拒否しますよ、もっとすごい理想が「おれ」にあるのだから。というエゴイスト。)

11.ここまで書いてきたことを「おれ」は信じていない。とどのつまり何もしないほうがよい、意識的な無気力がマシだ。ではなぜ書いたか。つつみ隠さず打ち明けることができるかを試してみたのだ、昔の思い出で苦しめられているから。(というわけで意識的な無気力という地下室の思考は1にもどり、ぐちぐちと無駄口をつぶやくことが繰り返される。自意識という牢獄はそれ自体に内在する力では脱出できないのだね。感心したのは、最後の数行で第2部の昔話にスムーズにつなげたこと。この技量はただものではない。)

 地下室にこもりっぱなしで、他人と話しすることなどしていない(ゴリャートキンにはペトルーシカという下男、ラスコーリニコフには世話をする女中がいたがこの語り手にはいないのか)。文章を書く行為は自分を相対化し、他人の眼で自分を見ることを要請するのだが、この語り手はどちらも持てない。それでこの第1部はとても偏狭な内容になり、自分の言葉で昂奮してしまう。どんどん極端なことをいうようになり、あれかこれかの二分法で物事を判断し、かんたんな解決策(「何もしない」)にからみ取られていく。「おれ」の観察眼はするどいが、人間観はモッブや全体主義者のそれにちかい。
(それがあって、この語り手はマカール(「貧しい人々」)、ゴリャートキン(「分身(二重人格)」)のような統合失調症の病気を持っている人なのではないか、と妄想してしまう。)
 解説者は語り手のような「余計者」をつぎのようにまとめる。

そして彼ら(注:人工都市ペテルブルグに住むもの)の中から「余計者」と呼ばれる人種が生まれたのである。余計者は、高邁な理想を胸に、全人類の福祉のために奉仕したいという願望を持ちながらも、いざ実行という段になると、何一つ成し遂げることができない。漠然と全人類に向けられていた愛情も、生身の身近な個人の愛には決して応えることができないのである(P268)

 ちょっと異論があって、順番が逆だと思う。社会から疎外されて孤立化アトム化していて「何一つ成し遂げることができない」から、自分の価値を低く時には無に思っていて、隣人や知り合いたちとの交友がなく「生身の身近な個人」を愛することができない。かわりに具体的な存在をして現れるのではなく、抽象的観念である人類や民衆を相手に「高邁な理想を胸に、全人類の福祉のために奉仕したいという願望」をもってしまう。存在しない対象なので願望を実行する手掛かりがなく、計画は常に挫折して、「何一つ成し遂げることができない」。苦しむことの喜びという観念をもっていても、自分で何かを引き受けて実行することはない。どうどうめぐりにみえるが、最初に孤立化アトム化がある。それはペテルブルグだけで生まれるのではなく、どの都市にもいるのだ。
(ドスト氏と同時代のエドガー・A・ポーやボードレールなどがモッブの誕生をみていた。)

 

 シェストフはこんなことを言っている(俺の超訳)。

ドストエフスキーは「地下室」の思想を構想する。すなわちヨーロッパ的なもの・ことへのほぼ全面的な否定、せめて人間らしくあれという人間の尊厳の尊重(ただし人権の確立には無関心)、理性よりも心理(というより屈辱から生じた信念や信仰)の強調、孤独な人格を囲む「壁」との格闘。テーマはエゴイズム。地下室にいることで、孤独に引きこもることで社会の問題(隣人、人類、文明、俺が加えると社会と倫理)の問題から解放されて(引き受けなくてもいいことにして)、孤独な人格の問題を取り上げることに専心する。
https://odd-hatch.hatenablog.jp/entry/2019/11/22/093554

 戦前昭和の若者は、同じ河上徹太郎訳の「悲劇の哲学」を読んで、「シェストフ的不安」にかられたのだという。当時の学生はラスコーリニコフになったかのようにマントに身を包んで夜中に都市を徘徊したのだという(埴谷雄高の深夜の徘徊もそういうものらしい)。当時の若者は「地下室の手記」やラスコーリニコフを自分自身のように考えるほど取りつかれていたのだそうだ。そうすると、「地下室」は肥大した自意識そのものになってしまうのだろう。

 

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2025/02/03 フョードル・ドストエフスキー「地下室の手記」(光文社古典新訳文庫)-3 おしゃべりしかできないネトウヨは社会的弱者を差別する 1864年に続く