山川方夫やまかわ・まさお(1930—1965)で知っていることは青空文庫の紹介文だけ。短編小説、ショートショート(★をつけたもの)の書き手。雑誌「マンハント」の常連。35歳で交通事故死。彼の同世代は、都筑道夫、筒井康隆、広瀬隆などか。ショートショートを始めたのはこれらの人たちなので、山川もそのひとり。できれば発表順(執筆順)に読みたいが、書肆をまとめたサイトはなかった。なのでタイトルのカナ順(収録順)で読む。

愛のごとく ・・・ 30代初めのころの放送作家。具合の悪い母、未婚の姉妹たちを養うために、下宿を借りてラジオの放送作家をやっている。家族の女たちの愚痴を聞きながら仕事をするのが苦痛なので。そのうちに学生時代に知り合った女が下宿に入り浸るようになり、夜ごとの情痴。語り手の男は自分自身にしか関心を持たない、女の痴態にもあきれるしかない。しかし……。昭和30年代半ばにはモッブ@アーレントのような生き方、感じ方はごく一般的になっていたのだね。半世紀前はこういうモッブ意識は「それから@夏目漱石」のような高等遊民にしかなかったのだが。空襲による国土荒廃、人口流動による愛郷心の喪失、そんなのが無関心や無感動になったのだ。なので、本書は殺人がないカミュ「異邦人」。語り手の心象と文体は福永武彦に似ているな。下宿にこもってsexばかりというのは大江健三郎「われらの時代」にもみられるが、20代前半の若者は生活や日常に落ち着くことができないので、街に出て暴れる。この小説の30男は内にも下宿にもこもるだけ。
朝のヨット★ ・・・ 少年は少女の連れて行っての懇願を無視して、ヨットを沖にだし、帰らなかった。少女は、彼の帰還と「一人きりでいたい」の意味を問い続ける。福永武彦風。
暑くない夏★ ・・・ 余命一年の少女を見舞った帰り、少女が五感をなくしつつあるように、少年も夏の暑さを感じなくなった。少年の精神を救うために少女が犠牲になるというミソジニーの小説。
あるドライブ ・・・ 夫婦そろっての久しぶりのドライブ。よそよそしい夫は妻の不倫を告発。不倫相手が追いかけてくるから、夫は妻に事故を装う殺人を命じた。のだが……。昭和30年代の犯罪小説。真実がわからない「藪の中」ストーリー。
海を見る★ ・・・ 語り手「僕」が海が好きな理由。一人きりになれるかな。新婚で実家に戻ってきたばかりの述懐としては異様。犯罪の予告なのかも(深読みしすぎ)。
演技の果て ・・・ 劇団員のマリが突然自殺した。理由は不明。通夜に集まった劇団員たちはなぜと考える。とくに過去に関係があったものたちは。自分が殺したのではないかと不安を持つ。福永武彦「死の島」の圧縮版。男たちは女たちを支配したがり、しかし自己主張するとへそを曲げる。自分は他人には無関心だと言い募りながら、自虐を味わう。男は悲劇の主人公気取りでいても、実際はわがまま放題。
煙突1964 ・・・ 敗戦後中学は再開したが、健康な生徒は工場の整備に動員されている。病気のために行くことができない生徒は誰もいない校舎で時間を潰さなければならない。自意識過剰の15歳が他人と友人になるのに困難を覚えたり、空腹を紛らわすのに苦労したり、一日一冊の読書を自分に課したり。モラトリアムの半年が過ぎる。この中学生は自省と衝動が交互に現れ他人に攻撃的になる。何にも事件が起きないし、中学生の思考も堂々巡りだけ。やれやれ、高橋和巳「捨子物語」、笠井潔「熾天使の夏」を読んでいるみたい。
お守り★ ・・・ 集合アパートに帰ったら自分そっくりの男が部屋を間違えていた。アパートでみなが同じ行動をとっているのかと恐ろしくなり、自分は特別なんだというお守りでダイナマイトを飾っていたら……。分譲アパートができたのはこのころ。同じ建物に別々の世帯が住んでいる(しかし共同生活ではない)のが恐怖に思えた。バラード、筒井康隆なんかがアパートを舞台にして似たような恐怖心を書いていた。
夏期講習 ・・・ 大学の英会話の夏期講習に目の覚めるような美人学生がいる。気になる。そこで彼女のことを調べようとするが、なにもわからない。あるとき、銀座で彼女がGHQの中尉をデート(あろうことはキスまで)しているのを見かける。占領期の大学生は軍国教育を受けた人。男女で親しく話すことなどできない。なのでこんな術策を講ずることになる。語り手はステディな彼女がいるのに、他人が気になって仕方がない。それはこいつの女性支配欲のせい。それに気づいていないので、勝手に盛り上がり勝手に失望する。
軍国歌謡集 ・・・ 朝鮮戦争が終わったころ、大学生の「僕」は10歳年上の大部屋俳優と同居している。毎晩、下宿の前を女性が軍国歌謡を歌いながら歩いていた。大部屋俳優は歌声の主に恋したが、直接会おうとはしない。「僕」はあるとき不意に明りを向けて歌声の主を見てしまった。大部屋俳優のイメージとは全然別の女性。でも彼の恋ごころを潰さないように、「僕」は嘘をつき続ける……。又吉直樹「火花」(文春文庫)の昭和版。こちらのほうの語り手のよりクズで怠惰。自分はなにもしないのに(そのことを歌声の主に糾弾されるが反省しない)、他人をぶつぶつと批評するだけ。
Kの話 ・・・ 中学生時代。親切の押し売りをするKが友人になろうと言ってきた。つっけんどんな対応をしているのに、Kはなれなれしくつき纏う。「軍国歌謡集」の前史みたいな短編。ここでも「僕」は自分のことを棚にあげて、ぶつくさいうだけ。
最初の秋 ・・・ 昭和19年に父が脳溢血で死んだときの記憶と、1964年東京オリンピックの直前に新居を構えた時の妻とのいさかいが交互に繰り返される。どちらもで男たちは口やかましいのに無能であり、女たちは角突き合わせながらも何とか生きていく。語り手の「私」は他の小説同様、ぶつくさいうだけ。ことが起きても父や祖父のように無能(まあ、病気で寝てないといけないという事情があるのは多少斟酌できるけど)。
アジア太平洋戦争の敗戦は、教育勅語の道徳から解放されて、欧米風の公共道徳を採用することになった。その象徴が日本国憲法の基本的人権の尊重。でも、人権尊重は日本人の内面に定着するのはとても大変。たいていは敗戦したからアメリカの真似をしようとするが、お仕着せの服を着ているみたいで、身の丈に全然あっていない。むしろ男尊女卑と他人に無関心の古い道徳のほうが懐かしくて、とりつくろっても時に本性が現れてしまう。
そんな戦後の心象を書いたのが山川方夫。読んでいて嫌になってしまうものばかり。俺の愚痴はサマリーに書いたので、同じことは繰り返さない。自分は何もしないのに、他人に文句たれてばかり。女性と対等に付き合うのは御免蒙りたいのに、性欲の対象としての女体は大好き。そんな男が書かれる。教育勅語の道徳が廃止されてからあとのほうが、日本国憲法で基本的人権尊重が道徳規範になってからのほうが、男の女性嫌いとマチズモが強くなってきたみたい。1950~60年代の男性作家に顕著。それは山川だけではない。サマリ―にも書いたように、福永武彦や高橋和巳、広瀬隆や筒井康隆なんかがそう。他にもたくさんいそうだ。
山川は女性に対する憧れを福永武彦や高橋和巳のように持っていないから(つまり幼児性を持っていない)、女性にはうけなさそう。
山川方夫はエンタメや犯罪小説の書き手と思い込んでいたので、うえで取り上げた短編を読んでほとほと後悔。さて創元推理文庫ででたこの連作短編集ではどうなるか。と思って「親しい友人たち」を読みだしたが、もう無理。耐えられない。
久々の壁に投げつけたい本になった(電子書籍で読んだので物理的にはできない)。
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