odd_hatchの読書ノート

エントリーは3400を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2025/9/26

柴田翔「されどわれらが日々―」(文春文庫) 1950年代の知的エリートの自意識過剰な青春。空虚や貧しさを感じても他人に無関心なので救済されない。

 2025/2/21放送のNHKラジオ「高橋源一郎飛ぶ教室」で、韓国では翻訳された柴田翔「されどわれらが日々―」がとても人気で、共感している読者がたくさんいるとレポートしていた。なるほど。俺も約半世紀前に読んだが、内容をすっかり忘れている。そこで、再読した。

されどわれらが日々―1963 ・・・ 時代は1960年ころ。1954~55年に東大で共産党に入党していたものは地下活動を命じられ、山村工作隊として派遣されたが、すぐに方針は撤回され武装革命路線は誤りだと総括された。多くの学制党員は落胆し失望する(一部のものは離党し新しい政治団体を作る準備を始めたがそれは別の話)。その「転向」で傷ついた若者らがいる。小説の語り手は英文学科の院生。修士論文を仕上げれば地方大学に就職することが決まっている。ひとつしたの女子大生(今はBGビジネスガール。当時の呼び方)と婚約している。語り手は運動には加担していなかたが、フィアンセはそうではなかった。語り手がある蔵書印がついたH全集(ヘーゲルだろうな:当時岩波書店が刊行中)を古本屋で買った。そこから1955年ころの東大共産党サークルにいた人たちなどの過去が知られてくる。語り手のところにはそれぞれ別人が書いた5通の手紙が集まり、彼は読んでいく。他人の過去や内面をしるにつけ、語り手が表面的にしか知らなかった男女の内面を知ることになっていく。全体は探偵小説的。H全集がうまい小道具となって、バラバラに見えた人たちの濃厚な関係を内面があきらかになる。まず技術に感心した。
 とはいえ、登場人物はみな20代(作者1935年生まれも執筆時は20代前半)。敗戦後10年以上たっていて、戦争体験を持たない当時の若者たちは自分を空虚で貧しいと感じていた。青春はたいくつで惨めだった。それは誰かや何かと比べての気持ではない。単にそう思っているだけなのだ。相対的に経済は上向いているし、世界に戦争はないし。たんたんと日常を送れば退屈ではあるが平穏な日々を送れるはず。でもそれではダメだ。何かをしなければならない。といって、その何かを権力との闘争や性愛で埋めればよいわけではない。そういう選択をした何人かは自殺してしまった。結局おれたちは喪失と空虚をずっと持ち続けなければならない・・・。
 こんな感じかな。高校生の時の俺はこの小説には乗れなかったのだが、今回もそう。青春に空虚さや喪失感をもつのはどの世代でもそう。二葉亭四迷浮雲」から夏目漱石三四郎」、とんで野間宏「暗い絵」などの系譜をたどれる。本作発表の同時代には、著者とほぼ同世代の大江健三郎高橋和巳が似た主題で小説を書いていた。そちらには感心(ときに大反発)したものだが、柴田のにはそんなもんすかと軽く扱う。それは登場人物たちが都会のエリートで金持ちの子弟であることかなあ。教養主義の申し子であるような彼らはまじめで真摯。でもどこか軽薄。逃げ場を確保したうえで、議論を中空に展開しているようだ。
 彼らは結婚はまじめに考えるけど、性交はとても気軽。語り手は東大のエリートのせいか、女子大生や院生たちにモテて気軽に寝る。ときに同棲もする。女性らも複数人の男と付き合うことに罪悪感を持たない。これはその時代の若者の特長かしら(当時の大江健三郎の小説もそうだし、太陽族映画もそんなようだし。このあとの全共闘世代になると禁欲的になる)。
 さらに21世紀の視点でみると、男は誰もがミソロジー。語り手のフィアンセは結婚したら「ずっとあなたの食事を作るのかしら」とつぶやいても、そこに問題を感じない。続けていれば慣れるよとやり過ごす。最悪は六全協で失望自失した党員の男子学生は女子大生をレイプする(語り手は無関係)。男は女性の問題に無関心。なので六全協ショックで自殺した男は理解できても、不倫の末に自殺した女性は不可解。最後の手紙は女性による男性の告発なのだが、受け手はそれに気づかない。フィアンセが必要だと心底感じた時に離れてしまったという。俺からすると、地方大学に就職した20代後半の男が未婚なのが恥と思っているだけ。語り手はフィアンセと対等の関係を作れないし、他の人たちにもそう。あるいは無関心。語り手の精神の荒涼さは高橋和巳「悲の器」や福永武彦「死の島」と同じ。

ロクタル菅の話1960 ・・・ 「ロクタル管と言うのは、あの、ラジオに使う真空管の一種なのだ」。
 詳細はこのページを見てください。本小説も載っているよ。

kawoyama.la.coocan.jp


 占領期。中学生(当時はまだ旧制だったか?ちなみに男女共学)の間で真空管ラジオ制作が流行っていた。語り手の「僕」もそのひとり。ラジオの性能は真空管で決まるので、よりよい真空管が欲しい。当時最高品質の真空管がロクタル菅だった。でもあまりに高価で中学生にはバッタ屋(死語か。倒産した業者の在庫を安く売る店。ときに盗品も売る)でも買えない。あるとき路地のバッタ屋で欲しかったロクタル管を見つけた……。中学生の真空管に向けたフェティシズム
手に入れたことの意味を成人になってからも反芻する。自我とは面倒くさいねえ。
なお、中学生は同級の女子の変化を眩しがるが、自分らのクラブを女子禁制にする。少年時からのミソジニー意識がさりげなく、しかし誇らしげに語られる。かつてはスルーしたが、今回の再読では気になる。

 

 二つの短編を読んでの感想。都会の知的エリートの自意識を克明に描写する文体が特長。あまりに知的な人たちの集まりなので、田舎出だったり非エリートにはわかりにくいのではないかしら。とりわけ語り手のミソジニーと競争意識には引いてしまうと思う。他人を押しのけ、先に立つことが語り手ら男性の行動規範になっているのだ。そういう自分を正当化しようとする語り手の仮面貴族ぶりより、六全協で挫折して自殺した学生や、自分にできることをみつけに男を捨てて自立しようとする女性に共感するだろう。
 登場するキャラは1930年代生まれ。戦争の被災体験はあっても戦場体験はない。戦時の軍国教育を受けて敗戦後の民主主義教育を受ける。就職するのは「もはや戦後ではない」と復興がだいたい終わってから。経済は順調に発展中。子供のときに抑圧してきた「大人」たちは一掃されている。若い人たちだけの風通しのよい組織や集団にいる。あまり社会的なストレスがない青春を送れた。それが観念性を高めることになったのかしら(彼らに似ているのはカミュ)。次の1940年代生まれになると、ベビーブーム世代なので同世代の競争が強烈。別のストレスにさらされていた。そんな世代論を妄想。

 柴田翔はあといくつかの小説を書いて(俺は「われら戦友たち」を読んだことになっているが内容は忘れた)、そのあとは専攻のドイツ文学研究に専念した。2025年8月現在存命。お健やかに。

 

 韓国の読者はどういうところに共感したのかなあ。不思議。というわけで、NHKラジオ「高橋源一郎飛ぶ教室」の当該回2025/2/7放送を聞く。取り上げた本は斎藤真理子「増補新版 韓国文学の中心にあるもの」イーストプレス。この終章「ある日本の小説を読み直しながら」が柴田の小説を取り上げているという。主張は、日本人は朝鮮戦争を忘れることで発展してきたということ。「されど」にも「ロクタル管」にも朝鮮戦争の話題がでてくる。だがそれは、朝鮮特需で不況の日本経済が持ち直したということだけ。冒頭で高校生が戦争の発端はどこかを議論している。でも、現地で何が起きているか、政治的な理由はなにかなどはその後まったくでてこない。「休戦」になったら、すぐに忘れてしまった。作家も忘れていたし、当時の読者も。その後の読者も(俺もそう)。
 日本人は歴史を忘れる。しかし韓国人は歴史を忘れない。翻訳された「されど-」を読んで、日本人の忘れっぽさ(とそうしていられる尊大さ)を他山の石としたのだろう。心底恥ずかしい。

 

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