odd_hatchの読書ノート

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明石散人「七つの金印 」(講談社文庫)

 「志賀島の「漢委奴国王」の金印。福岡藩の学者亀井南冥は、明らかに異例な第二の藩校を金印発見と同じ月に開校する。発見に関わった人達が全て南冥と繋がりのある不思議。発見日の記載がない鑑定書。国宝金印は本物なのか?歴史をつくり出す者、謎を解き明かす者。手に汗握る第一級歴史エンターテインメント。」

 例によってネットで収集した梗概を示す。上の梗概ははしょったところがあって、志賀島の金印に行く前に、秋田の旅館に所蔵された足利時代と思われる金印の行方探しがあり、最後には贋造品を真品と偽って販売する「影の組織」の存在がにおわされている。それぞれについて膨大な文献収集が行われていて、よくもまあ読んだと思うような古い文献が引用されている。なにかに興味をもっても、そこまでの収集欲をもっていない読者にとっては、著者の存在は「知の巨人」というわけだ。(引用文献を個別に論破していくやりかたは、梅原猛「歌の復籍」を思い出した。梅原のは面白くなかった。)
 なるほど「志賀島の「漢委奴国王」の金印」には発見時からさまざまな問題があるということはわかった。その真贋を検定することは、まかせる。自分の興味はない。
 気になるのはふたつ。事実を立脚して議論(というより自分の説の紹介)を進めていくのだが、その歴史解釈において「陰謀論」がまぎれこんでしまうということ。ここでは、「明石」家なる金印収蔵一家が想定されていたり、黒田家(志賀島を領有する藩)が金印が模造であることを知った後その秘匿に努めていたとされたり、明治維新政府が新たな国璽を作るときに「律令」の規定(おいおい奈良時代の法律だぜ)に背いたものを誤って作りその秘匿のために事件を起こしたとしたり、などなど。事実が十分に収拾できなかったり、自分の知識とあっていないときに、「陰謀」がなされていたと考えるのは知的行為としては不誠実であるのだが、どうもこういう在野の「知の巨人」は「陰謀」に加担しやすいらしい。
 もうひとつはアカデミズム批判。著者によるとアカデミズムと古墳泥棒は同じということになっている。すなわち自己の利益のために他者の財産権を侵害するから、ということらしい。あるいは自分の思いこみをなかなか修正しない頑迷さ(たとえば「金印」が模刻品であることをみとめないとか)をもっているとか。著者の上げる例でみれば、アカデミズムは悪い、いろいろ問題を抱えていることはそのとおり。でも、アカデミズムと泥棒を同列にするのは乱暴すぎないかい。アカデミズムは獲得した知識をほかの人に無償で流通するのだよ。泥棒はそんなことはしない。もうひとつ、アカデミズムはすくなくとも監査機能を持っている。アカデミズム内の事件を自己批判することはしている。商法や刑法に触れない限りはなんでもありで、やったもん勝ちの泥棒やメディアと比較するのはフェアとは思えない。遺跡研究をマスメディアが行った時の危険はこの本でも書かれているのに(著者と思しき主人公の思惑はひどいと思うよ)。

  

 2008年10月19日(日)に志賀島を訪問。福岡ベイプレイスからフェリーに乗って30分。訪れたのは志賀島神社と金印公園。志賀島神社の雰囲気は素晴らしい。粛然とする。金印公園は手入れが悪かった。場所は、海沿いの崖を少しのぼったところ。その中腹の少しだけ開けたところが金印発見の場所だった。南向きで日当りがよいとはいえ、畑にするには不便なところ。個人的な印象では、ここに金印があったというのはかなり不思議で、発見も相当の偶然だっだろう。とはいえ、この本の主張に賛成しているわけではない。