odd_hatchの読書ノート

エントリーは2400を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2020/10/13

トーヴェ・ヤンソン「ムーミン谷の十一月」(講談社文庫)

 秋がムーミン谷に近づく。そろそろ雪に閉ざされ、みんな家に閉じこもることになるのだ。そのようなある日、谷の人々が突然、人恋しくなった。

 スナフキンは旅の途中、「雨の曲」を作ろうとしたが、どうしてもメロディが生まれてこなかった。雨にふさわしい五音がつかめそうでつかめない。そこでムーミン谷に戻ってくることにした。
 ちびっこホムサ・トフトはヨットの下に住んでいて、雨を聞きながらお話を作るのが好きだった。ムーミン一家の家の近くに来ることはあったが、ドアをたたけなかった。でも、そのままじゃいけないと思い直して、ノックすることにした。
 ひとりぼっちのフィリフヨンカは家の掃除に、炊事にといつも大忙し。あるとき、屋根を修理しようとして、あやうく落ちそうになる。ようやく助かった時、フィリフヨンカは「生活」が美しいことに気付く。なので、初めて外に出て人に会おうとする。評判のよいムーミン一家を訪問するのがよいだろう。
 ヘムレンさんは一人暮らしのちょんがー(死語なんだろうな)。自分が自分であることが嫌い。今の暮らしが大嫌い。昔、楽しかったことを思い出せば、ムーミン家に泊まったときだった。だから、彼らに会えば楽しくなるだろう。
 100歳になったスクルッタおじさんは、もう過去を覚えていないし、今もすぐ忘れてしまう。彼の周りには孫やひ孫や玄孫がいるけど、うるさいだけ。なので、家を出てしまうことにした。徘徊しているうちにムーミン谷に来てしまった。
 ミムラねえさんはちびのメイの様子を見に行こうとした。ムーミン一家の養子になったメイがなにか悪さをしていないかと思って。
 しかし、ムーミン一家は留守だった。
 さてどうしよう、というわけで、かれらは一家が帰るのを待つことにする。しかし、全員一人暮らしで、内にこもってばかりだった。人との付き合い方がうまくできるような経験がすくない。なので、極端に遠慮するか、あるいは極端に自己主張するか。そのためにみんなが角付き合い、とげとげしくなり、パニックになったり、顔を合わせないように工夫したり。ヘムレンさんは強引に自分の主張を押し付けようとし、フィリフヨンカは自分のやりたいとおりに事が運ばないとパニックになるし、ホムサはほぼ一日中本を読んでいるし(分類学の本で、放散虫とか貨幣石のことが書いてある)、スクルッタじいさんは現在の記憶しかなくて奇妙なことばかりをしているし(鏡に映った自分の姿をムーミン家に住まうご先祖様と思い込む)。まあ、コミュニケーションができなくて自分も苦しんでいる人たちばかり。スナフキンはテントに住まって彼らとはかかわらないようにし、ミムラねえさんも自分一人で暮らしている。
 主題は「ムーミンパパ海に行く」と同じように、孤独、そして社会の役割との不適合。表面上は、最後のパーティでうまくいったように思える(意固地なフィリフヨンカをミムラ姉さんがほめるあたりから、フィリフヨンカの態度が柔和になっていくし、ヘムレンさんもヨットを持っていながら海に出たことがないことを告白してやはり柔和になった)。それでもその翌日にはほぼ全員がムーミン谷を出ていって、自分のかつての住処に帰るので、さあうまくやっていけるのかしら。ムーミンシリーズで何かの問題が解決されたことなどないし、それはそれでよいのだろう。なにがよいのかよくわからないけど。(逆に言うと、ムーミン一家はそのような人々の間を取り持つ潤滑油のような人格をもっているわけだ。この社会性とか日常性とかが彼らの魅力。でも、前作で子供のトロールが自立したとなると、もはや主人公を続けていられなくなる。)
 最終ページでムーミン一家が帰還する(前作「海に行く」の冒険からの帰還だ)。それを迎えるのは、ひとりぼっちのままのホムサだけ。さて、彼はどうなるのかな。この1971年の長編が最後になってしまったので、ホムサの行く末はわからない。
 こうして全作を読み直すと、いかにも子供らしいスニフやトロールやちびのメイが次第に存在感をなくしていったことに驚く。児童文学というジャンルなのに、そのような子供らしい子供がどんどん背景に行き、大人の描写が精密になっていくなんて。子供の時に読んだときは始まりの「彗星」「楽しい」「パパの思い出」が好きだったけど、中年を過ぎての読み直しでは後半のほうがずっとおもしろく、心に突き刺さるものが多かった。この作のいささか自閉的な人たちは、自分のある部分とそっくりなのでね。なので、かつてのファンは年がいってから読み直したほうがよいな。