odd_hatchの読書ノート

エントリーは2400を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2020/10/13

ジョン・ディクスン・カー「ビロードの悪魔」(ハヤカワポケットミステリ)

 1959年の歴史もの。カーの著作ではもっとも売れたという。なるほど、ベストセラーになる条件のひとつは分厚いことだが、それはまずクリア。ポケミス版で430ページ(厚さ2cm超え)。では、それ以外の条件はなんだろうという視点でまとめる。

・1950年代の歴史学教授ニコラス・フェントンは1675年6月10日に起きた美女毒殺事件の真相を知りたいと熱望していた。手元の資料では肝心なところが切り取られ、なにより事件は「この館」で起きたから。10年も研究を重ね、58歳の老齢になったところに悪魔が現れる。魂をくれればお前の行きたい時代に行かせてやろう。「悪魔の取引」は、人間が有利な条件を付けたつもりでも悪いことが起きるものだが、それをかいくぐることができるか。このサブテーマに注目。
・一夜寝ると、フェントンはその時代にいき、資料にでてきた26歳のニック卿になっている。このように人生で獲得した知恵と経験をそのままに身体だけ若くなりたいという欲望はすべての人にあるだろうが、それが実現していることで読者の心をわしづかみ。そのうえ、ニック卿=ニコラスはフェンシングの達人であり、貴族の一員である資産もちであり、女がほおっておかない美男子なのだった。そのうえ、粋でいなせで義に熱い好青年。うらやましいぞ、この境遇。ここでニック卿を王党派にしたのは、執筆当時のイギリスが労働党政権であり、保守主義者の著者の本音が垣間見えると妄想。
・問題の1675年は1641年から1649年にかけての清教徒革命と1688年から1689年にかけての名誉革命のはざま。市民革命の時代とされるが、王党派に議会派、清教徒カトリックイングランドスコットランドなどそれぞれの主張、思惑を持った諸派が対立・拮抗し、なんとも整理しがたい状況があった。ざっくりいうと市民革命の成功で王は退位、実権を握ったクロムウェルの遠征と暴虐で、1675年というと王党派がバックラッシュ。チャールズ2世が王位についた。名誉革命がのちにおこるように、王党派の権力体制ももろさがあった。このような史実は変えがたい(フェントンと悪魔の契約でもそこは念押しされる)。どれだけそこにフィクションをつぎ込めるかは作者の手腕になるが、自分はイギリスのこの時代を考証できないので考えないことにする。ただ、ニック卿=ニコラスの行動の背景がこのような荒れた時代であることに注意しておけばよい。
・王党派としてふるまうのであるから、議会派の首魁シャフツベリ卿とその支持団体グリーン・リボンと衝突せざるを得ない。当時は命の安い時代であって、待ち伏せや襲撃にあえば、逆襲して殺すことは問題ないとされる(なにしろ国家警察組織ができるのは1800年代初頭「火よ! 燃えろ」の時代だ)。そこで、フェンシングを20年以上やっていたというフェントンの剣技がさえる。路上の待ち伏せ、夜間の襲撃(暴徒60名に対してこちらは6人。この危機を乗り越えられるか!血沸き肉躍り、手に汗握る30ページ)、ロンドン塔の決闘と3度も斬り合いが起こる。フェントン、かっこいいぞ!それは彼の召使い、下男・下女もそうであって、フェントンの「民主的」「人道的」な振る舞い(20世紀ではあたりまえの配慮)に感激して、彼らは命を投げ出すのをためらわない。ここもかっこういいぞ。とくに、クールで痩せぎすの秘書兼召使ガイルズ・コリンズがすばらしい(隠された素性の含めてね。ちなみにフェントンが毒殺事件に魅了されたのは、ガイルズの手記を読んだから)。
・リディア毒殺事件は砒素中毒。この時代には、ネズミ退治のために薬局で売られていたそうな。ニコラスは妻リディアに惚れてしまったので、できるだけ毎日彼女のそばにいたのに、おつきの下女に身の回りの世話を任せたのに、どうやって砒素を飲ませることができたでしょう、というのが謎。彼女を嫌うケティというわけありの下女に、メグという「現在」の妻そっくりの謎の美女がいて、議会派でプロテスタントの下女がニコラスを嫌いぬいていて、ジョージ卿というお調子者の貴族がケティとメグ目当てにたむろしていると、容疑者はいっぱい。ニコラスは頭を働かせるが、26歳の若さの故にか謎解きは苦手。
・面白い趣向は、悪魔の契約で過去に行ったとき、実在の人物の身体を乗っ取ること。なので、抑圧されたニック卿の自我がときに噴出し、その激情的な性格で、記憶に残らない暴れっぷりを示すこと。二つの人格が同居して、ときにその制御ができないというのは、筒井康隆「おれの血は他人の血」で繰り返される。今のSFなら人格モジュールが暴走して、行動を制御できなくなるようなものかな。
・過去にいくという契約をしたのはニコラス・フェントン一人であったが、友人の娘メアリー・グランディスもメグとして同じ時代に来ていた。これもなぜでしょうという謎解きがある。
 SFと探偵小説の趣向を混ぜ合わせた冒険時代劇。SFとしてみると設定は弱く、探偵小説としてみると謎解きはアンフェアの極み。それが弱点にならないのは、ひとえに17世紀の風俗の描写と、フェントン一家の冒険のいさぎよさにある。前半はフェントンの強さが際立ち(上記の6人対60人の決闘がクライマックス)、しかし後半にフェントンはシャフツベリ卿らの陰謀に巻きこまれ国王陛下に裏切られロンドン塔に幽閉されるという絶対絶命の危機に陥る。明日にも斬首という夜、メグが現れ、真相を解き明かし、最後の決闘に勇躍挑むという構成もベタながら、熟練の技を楽しめる。ロマンス、謎解き、冒険、決闘、裏切りと報復、当時の風俗知識が横溢など、売れる要素のたくさん入った贅沢な作品。入手難でも読むべし。