新潮文庫に収録されていたのは、表題作の他「弟子」と「名人伝」の計4編。ここではさらに青空文庫に収録された短編のいくつかを加える。
1909年生まれ、1942年気管支ぜんそくで33歳の若さで没した。
文字禍 1942.02 ・・・ 昔、アッシリアの博士、エジプト人より文字の霊があると知らされる。そこで研究にのりだした。文字と意味のつながりがわからなくなるわ、文字を覚えた人にはたいてい仕事に支障が出身体も虚弱になっているわ、自身も分析病にかかるわと大変な騒ぎ。結末命のユーモア編であるが、シニフィエとシニフィアンの恣意的な結びつきの発見とか、粘土板だらけのアッシリアの図書館とか、なんかボルヘスみたい。
山月記 1942.05 ・・・ 中国、唐の時代か。詩作にふける男がいたが、ついにものにならず。妻子を捨てて出奔し山林を走るうち、一匹の虎になった。それから幾星霜、旅の途次の官吏が虎に遭遇する。虎はかつての才人で旧友であった。虎の自身語りと形見の詩十数編を詠う。という聊斎志異にありそうな異種変身譚。高校の教科書では、なぜ虎になったか、なぜ大成できなかったか、なぜ人の心を失うのが恐ろしいのかなどの問いに答えなければならなかったはず。初老の年齢で読むと、詩才ならずという後悔や悔念というのはすでに消えた過去の気持ちであって、虎になった李徴への共感や同情はもはやわかない。なので高校の授業に出てきそうな問いには興味はない。むしろ異種に変身しながらも、人の心が残っている間、理性と知性と記憶を働かせられることに驚く。李徴においては動物の本能と人間の理性はデジタルに分けられるのだ。PKDのシミュラクラやレプリカントたち、あるいは分裂症の認識がインストールされた人間たちは、世界の見え方にも記憶にも猛烈な違和感や不審などを感じて、自我の崩壊や流出が起きる。そこまでに至らない李徴の性向及びそれを描く作者の認識は近代以前であって、ファンタジーだなあ。PKD的なリアルを感じない(こんなことを高校のテストに書くと、点数をもらえないはずなので、若者は気を付けよ)。柳広司「虎と月」(文春文庫)は「山月記」の読み直し。面白いので、続けて読むとよい。
柳広司「虎と月」(文春文庫)
悟浄出世 1942夏 ・・・ 水に棲む妖怪の悟浄、自己と世界の究極の意味を問う近代的懐疑にとらわれる。水中の哲学者にこの答えを聞きにまわる。さまざまな立場の博覧会。シニシズム、スノビズム、オタク、全体主義、快楽主義、衒学趣味、功利主義などなど。ついに答えを見出せず、夢を見るに、三蔵法師の伴となり、旅に行でよとの命。「西遊記」外伝とでもいうか。懐疑にとらわれた彷徨える魂が師匠を見つけようとするが、「名人伝」では成功し、悟浄は失敗する。これをみるに、名人伝では弓矢の術を極めるというビジョンとミッションは明確であったが、悟浄の哲学的問いはビジョンがあいまいで目的地を探すことが目的であるという自家撞着になるのであった。最後の夢は生活に引きこもるな、労働に行けという命令であるのだが、東洋思想や仏教に自分が不満になるのは活動@アーレントにでるというモチーフが見出しがたいこと。我と衆はあっても、コミュニティがないのだ(これは自分の勘違いかもしれないが、メモしておく)。
悟浄歎異 1942夏 ・・・ 旅の途中の悟浄による悟空、三蔵、八戒評。自分などは絵本やアニメのおかげで西遊記のキャラクターは欠点があるが愛すべき連中とみるのだが、悟浄というインテリからみると、いずれも長所があり、自分にはないすぐれたところをもっている。なので、「愛すべき」ではなく畏怖し術を学ぶべき師であるとみなせる。この読み替えはみごと。一方、悟浄は自身を「調節者、忠告者、観測者」であり、かれらのような「行動者」にはなれないと自己を低く評価する。これはたぶん発表当時の若いインテリの心情の代弁であるだろう。
牛人 1942.07 ・・・ 魯の時代の名君。夢に闇に押しつぶされるのを見る。黒い牛のようなものが彼を助け、数日後に落胤が夢の牛そっくりの顔で現れる。侍従に取り立て、身の回り一切を任せることにしたが、老いて一人でできなくなったとき、牛人は豹変する。名君の命はことごとく握りつぶされる。ウォルポール「銀の仮面」に似ているかな。これも異種変身譚のひとつといえる。
虎狩 1942.07 ・・・ 1942年に十数年前のことを回想するというから1920年代後半のことか。日韓併合から十数年が立ち、韓国の植民地化は進行。半島に渡った日本人の差別意識は強い。高崎宗司「植民地朝鮮の日本」(岩波新書)を参考に。さて、日本人の中学生が学校でいじめにあう(訛りが違うとか転校生だとかそういう下らぬ理由)。そこに声をかけてきた「半島人(原文ママ)」の趙くん。つかず離れず、胸襟を開くことができない/しない微妙な関係。趙くんの家は有力者とみえ、下人を従えて虎狩んでかける。寒い晩秋の夜、徹夜で虎を待つ。中学校卒業後、疎遠になって米英開戦前にふと出会い、声も交わさずに別れる。朝鮮統治時代に朝鮮人との交友を描いた小説は極めて珍しい。どうしても優越意識がでてしまって、横光利一「上海」夢野久作「氷の涯」のように無視になったり、新見南吉「張紅倫」のように憐憫になったり。対等な関係を結ぶことを描きにくい。ここでも書き手の日本人の優越意識は消えていないが、ほかの作とは異なり、「半島人」を理解しようとする視線はある。それは書き手の主人公が中学生のローティーン、ミドルティーンにあるからだろう。大人でも子供でないあいまいな年齢と自意識が戦前にしては珍しいリベラルな関係をつくることができた。その関係は少年時代にだけ築けて、大人になった現在では成り立ちえない。とりあえず植民地が無くなった今、われわれ日本人がいまだにこの書き手のようなリベラルな関係をコリアンと結ぶのが難しいのをみると、われわれの精神はまだ作中の少年にすら達していないのだろう。
狐憑 不明 ・・・ 未開部族のシャクに憑き物がついた。以来、彼は物語を語る。人はそれを聞いて喜んだ。長老は若者がシャクの話に夢中になって働かなくなるのに眉を顰める。ついに、シャクが語るのをやめたとき、村の掟が働く。筒井康隆「空想の起源と進化」1970年と読み比べられたし。
すごいなあと思うのは、開高健が、日本の文学者で文体をもったのは中島敦・梶井基次郎・井伏鱒二といったように(@風に訊け)、漢文風の明晰な文体と現代の分析的な文体と学術的なユーモアの文体を駆使していること(惜しむらくは一つの作品にひとつの文体なので、単調におもえるところ)。この若さで完成された文体をもっていることに驚く。
文化的相対主義の視線をもっていること。「李陵」「虎狩」に典型的だが、異国や「蛮国」とされる地やそこに住む人々に対する蔑視や憐憫の情を持たず、彼らの在り方に優れたところを見出そうとしている。もちろん時代の制約(なにしろ植民地支配と軍人による全体主義体制があり、アジア諸国への民族差別と欧米文化への卑屈なありがたがりがあった)もあるのだが。それでも同時代の作品よりもリベラルな様子が読み取れる。
古典を題材にした作品に顕著だが、他人に対する観察と分析に優れていること。わずかな語句で、それぞれのキャラクターの心情や思想を摘出する技はみごと(なので「山月記」「名人伝」が今でも読まれる理由)。
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<追記2021/4/13>
NHKラジオの高校現代文で「山月記」を取り上げていたので、録音して聞いてみた。失望。
先生が読み取らせたいのは、虎=自然=悪で人間=善という構図、怠惰・傲慢による人間性の喪失、内省による本来の人間性の回復、内なる野獣性の自覚と暴力を制御する自制、人を襲う人虎にも「われわれ」と同じ人間性があるので共感を持つべき、など。通俗道徳と価値相対主義をここから読み取れということでした。
これがおかしいのは、いくつもあって、まず人を襲い食い殺す「りちょう」にも人間と同じ内面を持っているので尊重しようということ。行動の結果を評価するために内面や動機を重視するというのは法治主義にもとる。まず行動の結果や影響で判断するべきであり、罰を決める際の参考として内面や動機をみるべき。なので人を襲う人虎には共感する前に、保護や排除などの対策があるべきではないか。(りちょうにしても虎になった時の悪を自覚しているなら、人里離れるくらいの知恵を期待したい。それに「自然」の虎はいつでも人を襲うわけではない。人を襲うのはそうなる原因を人が作るからであって、そちらの対策がまず必要だ。なので柳広司「虎と月」(文春文庫)の解釈は妥当だと思うよ。)
ラジオ講座では、りちょうは虎になることで過去を反省して本来の人間性や道徳を回復(想起)したというが、それは違うと思う。りちょうは人間とのコミュニケーションすることで、殺してはならないという道徳や仕事を熱心にやれ・切磋琢磨しろという善を持つようになったのだ。道徳や善は本来的に内面化されているのではなく、コミュニケーションにおける相手との関係において作られ、都度相手の反応を見て確認・更新されていくもの。りちょうの言葉を聞く人間が相手だったから、りちょうは内省したのであって、言葉を聞かない(恐怖でパニックに陥ったりする)ものは殺して食うという「自然」を実行したのだ。(そうみると、りちょうの反省が長続きするかというと心もとないし、その内省をもってりちょうは人間性を回復したのだめでたしめでたしとなるわけではない。実際りちょうは人間の心を持つ時間が短くなっていると自覚しているのだし。彼はあくまで人を襲う人虎なのだ。それをふまえないと人虎問題は解決しないよな。
あと、りちょうもその話を聞いた人間も、労働軽視と生活嫌悪を持っている。詩文の才を高めることが重要で、それをもって立身出世を狙おうとする。詩文の技術や自然を描写する技工をもつことが人間を高めること。なので、労働軽視と生活嫌悪が生まれる。怠惰と傲慢が虎にしたというが、それは詩作においてだけのこと。りちょうも妻子のことを思い出すが、そのまえに妻子を顧みないで出奔した経歴をもっているので、妻子への念が強いわけではない。このような価値観は文人などのエリートやそれを目指すスノッブがもつものだ。そう考えるのは構わないが、ほとんどすべての人が労働と生活に苦労しているとき、彼らエリートやスノッブのほうが優れているわけではない。高校現代文を教えるものは、文化エリートの価値観をもつようにと生徒に勧めているのかしら。
このように高校講座は「山月記」から現状の肯定と内省に基づく自制を読者に要求している。すこしはある社会批判の視点や論点をかたはしから潰していく。
高校時代に読んだ時から中島敦「山月記」はたいした中身を持っていないと思っていたが、そのことを確認できる内容だった。文部省や教科書会社が高校生に教えたいことは現在の社会と道徳を肯定することであり、社会の安定を優先する政策の維持を認めさせることだというのもよくわかった。
ああ、ラジオの録音を聞いた時間がもったいなかった。(ほかに漱石「こころ」龍之介「羅生門」のあるのだが、聞くのが怖い。)