odd_hatchの読書ノート

エントリーは2400を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2020/10/13

フィリップ・K・ディック「あなたを合成します」(サンリオSF文庫)

 通常は中期から後期をつなぐ作品とされている。ここではポール・ウィリアムズ編「フィリップ・K・ディックの世界 消える現実」(ペヨトル工房) の長編作品一覧に基づき、1962年10月4日SMLA受理の日付を優先する。刊行は1972年。SMLAの日付を優先すると、作中で南北戦争1861年 - 1865年)の100年後であり、市民が夢中になっていると記述されているのとよく合う。シミュラクラに擬似イベントさせようというのも。

 電子オルガンを売っている地方の中小企業はスピネットピアノにおされて売上が芳しくない。そこで、上記の南北戦争ブームにあわせてスタントン将軍とリンカーン大統領の擬似人間体(シミュラクラ)を販売しようとうことになった。うまくできたので、地元の不動産業で富豪に持ち込んで一発大もうけをしようと考えたが、相手はその上手をいく。会社のデザイナーとエンジニアを引き抜いてしまう。企業の経営者はスタントン将軍を代表取締役に、リンカーン大統領を法律顧問にして、新規経営計画をつくり、巻き返しにでた。
 というのが大状況。不動産業者のトップのアイデアは人間そっくりなシミュラクラを量産して、火星の移住者にしよう。するとつられて人間も移殖するようになり、この国家プロジェクトに食い込もうというもの。なるほど、この小説がのちの「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」などの端緒になっているわけね。
 この小説でのシミュラクラは金属とコードと電子部品でできた人造体。記憶モジュールに生前の記録を複製することで、生きていた人と同じ人格と記憶ともっている。なので、この2体のシミュラクラは「生き返った」と認識し、新たな情報環境である現在にとまどう。しかしまだアイデンティティの危機や自分の存在理由にはそれほど悩んでいない(ようにみえる)。もともと強固な自我を持つ優秀な頭脳の持ち主であるからだろうか。むしろ過去の経歴を生かして、現在の人間の抱える問題や悩みのコンサルティングやカウンセリングに優れた働きをし、人間も彼らに頼るようになる。(サンリオSF文庫では、二人のシミュラクラに上級武士言葉をしゃべらせ、候文を書かせる。この文体を使うことで、彼らシミュラクラの異分子感、他者感をよく出している。創元推理文庫ではどうなっているのかな。)
 こういう大状況やシミュラクラをめぐる物語や問題は途中で放棄される。
 というのは、語り手「おれ(ルイス・ローゼン)」の物語がクローズアップされるから。彼は電子ピアノの優秀なセールスマン。商品の販売不振で次第に会社で疎んじられる。というよりも、周囲の狂気が彼を蝕んでいくようだから。父は老いたピアノの製造者で頑固者。弟は放射能汚染によるミュータント。ふたりとも引きこもっている。共同経営者のモーリスにはプリスという娘19歳がいる。彼女は分裂症をもって入院歴がある。「おれ」はルイスに関心を持って、次第に愛もかんじるようになるのだが、プリスは暴虐で獰猛で口汚くののしるが、ルイスは傷つきながらも魅了されていく。不動産業のトップとの交渉で、こちらに有利な条件を引き出せそうになったときに、プリス(シミュラクラの美術担当)が不動産業者の側につき(父とルイスへのさや当て、嫌がらせのために)、ぶち壊しにする。リンカーンやスタントンの提案で会社の再建にかからねばならないところで、プリス奪還を思いつき、不動産業者を追いかけまわし、テロルを予告し、バーでの会談でふたたびプリスに振られてしまう。ことここにいたって、ルイスは精神科医の治療が必要であることを認識し、療養所に入院して幻覚剤を投与する治療を開始する。そこでなんどもプリスと会う幻覚を見ては、自分のアニマにマゾヒスティックに裏切られることを繰り返す。
 この小説はPKDには極めて珍しいことに一人称で書かれていて、しかも記述の視点は一人だけ。通常は三人称で書かれて、複数の人物による視点の記述がなんども切り替えられるものなのに。こういう書き方なのはほかに「ヴァリス」だけではないかな。
 ルイスは間の抜けたところや一途な性向、気のきいたお人よしなどがあって、読者からみるとおっちょこちょいのかわいいやつ。それが仕事がうまくいかなくなり、恋愛で失敗し、社会と整合的な関係を持てない人に影響されて、精神をおかしくしていく。そのことへの自覚がないので、思い付きの行動をして壁にぶち当たっては、激しく落ち込む。作中では躁鬱症とか緊張病などの病名がでてくる。周囲を「よそよそしい憎悪の世界」とみている人物が他者との関係を上手く持てずに、精神疾患を重くしていく。小説の最初のほうでルイスに感情移入してしまうと、後半でのルイスの分裂的な症状の悪化と支離滅裂な鼓動に心底震え上がる。療養所での幻覚剤を使った治療では、幻のプリスに何度も「ちくちく棘をさすような言い方」に痛めつけられ拒絶される。この悪夢の繰り返し。ルイスはどうにか退院するのだが、プリスにはもう一度拒絶され、空無の世界に投げ出される。その哀惜、悲哀、孤独。救いのなさ。のちの「暗闇のスキャナー」のはるかな先取り。
 前半と後半が分裂しているので、小説技法ではあきらかな失敗作。でも妙に引っかかるところがあり、苦い気分を残す、できれば読まずに済ませたかった問題作。
(「二日たっても崩壊していない世界を創るために」(雑誌「ユリイカ」1991年1月号「P・K・ディックの世界」(青土社))によると、PKDはディズニーランドのそばに住んでいたことがあり、そこにはリンカーンの模造人形(シミュラクラ)が展示されていて、魅了されていたとのこと。不思議な取り合わせと思っていたが、なんとリアルと地続きの想像力だったわけね。びっくり。)

  

<追記: 2018/10/23>
フィリップ・グラスのオペラ「完璧なアメリカ人(パーフェクト・アメリカン)」には、リンカーン・ロボットが登場する。オペラのあらすじはこちらから。
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