2019/10/04 宇井純「公害原論 II」(亜紀書房)-1 1971年の続き
続けて昭和の公害。ほぼ同時代に起きている公害反対運動の紹介。この時代には全国で公害問題があり、それぞれで反対運動が起きていた。反対運動は相互に行き来をし(SNSがないので、現地に行くか呼ばないと情報を得られない)、方法やノウハウを取り入れていた。とはいえ、運動の主体である地元の人がどれだけがんばれるかが勝利の鍵となる。
三島・沼津 ・・・ 地下水が豊富で海運が良いという理由で三島・沼津にコンビナート建設計画が1958年に起きる。計画は数回変更されたが、住民の反対運動で中止になった。運動の勝利は政策の変更を促した。保守派は企業や県・国の意向を受けて巻き返しを図っている。
(運動は市民団体主導。既成組織は初動には強いが、運動が進むと邪魔になる。中心になったのは地元の高校の教師。実地調査は東京の大学の学者による調査団より精緻。毎晩勉強会を開いて、運動の参加者を増やす。とはいえ、市民の動きも早くて、企業に数千人が押し掛けるとか、農協幹部が賛成派とわかると預金引き出しで対抗して成果を上げるとか、いろいろやっている。法ができると問題が悪化するという実例にもなった。法律一本で世論三年。あと運動の記録は大事。特に細かいこと、個人的なことは後で忘れられるから必ず残すこと。)
富士 ・・・ 富士は地下水が豊富で、浚渫港をつくったので、大昭和製紙がはいった。東京電力の電力補助があって、製紙を開始。大気、水質、土壌の汚染が拡大。反対運動が起きる。本来はこれらの汚染が問題であったが、田子の浦のヘドロに矮小化されつつある。既成組織、革新政党、新左翼は頼りにならず、最後まで一人でやるという少数者の戦いのほうが強い。
(近藤準子による富士の水質調査の報告。企業と県と大学がデータの捏造を行い訂正に応じない。)
臼杵 ・・・ 1969年にセメント工場誘致が持ち上がる。漁民、食品加工業、地場産業が反対して、市民に広がる。「組織があるから負ける」(リーダーのことば)。被害を受ける少数派を被害を受けない多数派が圧殺する。選挙では誘致反対派は負けるが、民主主義は多数決でよいのか。
技術的対策 ・・・ 公害が起きてからだと部分的解決しかできず、技術は輸入できない(当時)。発生源で処理するのがよく、製造工程を改善させることで未然に解決できる(たとえばチッソの工場で水の循環使用を進めれば排液に有機水銀は流出せず、設備投資は150万円(当時)で済んだ。150万円を惜しんだので水俣病は発生したといえる。よくある対策は、合流式処理、混合処理、海洋投棄であるが、いずれもNG。技術的な問題解決にならない。企業と行政は高額予算を執行できるのでやりたがるが、市民は損するだけ。税金や罰金を取るようにすると、企業は対策を執るようになる。
法は世論対策でしかない。公害でいえば、基本法のできる前は「法がないので対処できない」、施行後は「基準となる政令がないので対処できない」(ヘイトスピーチでも警察や行政は同じ言い訳をしているな)。法は被害者を厄介者として扱い、差別問題であることを反映していない。なので、法ができても救済に時間がかかる。水俣病では50年たっても解決しない。
学問や技術を進歩させるのは、素人の物分かりの悪い批判(すなわち告発)。これを突きつけ続けることが大事。市民も企業や行政にからめとられないようにすることが必要。絶えず根本に遡って考える。
公害や環境汚染を技術の問題に還元しないこと。行政や企業などが市民に損をさせ、それで利益や権力を得ることを意識すること。などかな。ここでも善に中立な正義はないし、正義を実行しようとするとき自分が不利益をこうむることになりかねない。それでも正義を実現する。
技術的対策は、III巻の「運動論・組織論」と併せて読もう。ここには、21世紀の、311後の運動に利用できるさまざまな知恵がある。
初出は1971年。