odd_hatchの読書ノート

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宇井純「公害原論 II」(亜紀書房)-1

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 日本の公害の歴史を振り返る。歴史を振り返ると、以下のようにまとめられる。

「大正時代の公害問題に対する意識と行動の高揚が見事であるだけに、昭和年代の社会問題としての公害に対する我々の意識は、いかに低落したかに眼をおおいたくなるであろう。この間に、われわれは自然を資本に売り渡したのであった(P1)」

 民主主義や自由や権利を知らない人たちが、共同体の保持と団結に基づいて企業や政府に堂々と渡り合え、公害をなくすことができる。そのような団結を支える人がいたことと、企業や政府に頼らなくても生活できる地域経済があったことが重要。昭和になると、企業や県の力が大きくなり、人々の多数が労働者となる。すると、企業や行政に頼らないといけない人が多くなり、公害に抵抗する人が少数になる。結果、企業の利益と行政の論理が優勢になってしまう。

 

大正期における公害問題
日立煙害 ・・・ 日立鉱山の亜硫酸ガスによる煙害。久原房之介(企業)vs関右馬允(うめのじょう:山林代表)。被害者は科学的な計測と行い、企業も生産制限し毎年補償金と払うという「友好」な関係を作る。35年後に亜硫酸ガスから硫酸を作る工場ができて、煙害が解決。新田次郎「ある町の高い煙突」。


荒田川 ・・・ 岐阜に軽工業(羊毛、織機など)ができて汚水がでるようになった。下流の水利組合などが企業に抗議。自治体を巻き込んで対応。補償交渉はやらず、原因除去に特化。ときに被害者が処理方法を指定し、警察にきちんと運用しているかどうかを確認させた。金と閑のある地主が運動の中心で、各地の調査や実態調査を行い、被害者運動の横の連携ができた。住民自治がしっかりしている地域エゴイズムが働いた(全国から叩き出されてようやく企業は対策を考えるのである。しかし1970年代に日本の企業は海外に拠点を移動して日本と同じことをして、公害を発生させた)。
(大正時代に日本の公害防止技術の基本的な問題は出そろっていた。自治体、企業、警察も公害防止や対策に協力的だった。戦争のために公害問題は逮捕した。たった十数年とはいえ、日本が全体主義・強力な監視社会になったことで、自治や抵抗権の意識が薄れてしまい、政府と企業の権力が強化拡大して住民、大衆に戻らなかった。)


昭和期の公害問題
石狩川 ・・・ 1939年に旭川に国策パルプができる。排水で汚染が深刻化。1943年に企業と土地改良区で協定。戦後1958年に水質二法ができたが、調査期間中に水質汚染が進行。石狩川の漁業が壊滅。1953年からの水制度部会で水質汚染の議論が出尽くしているが、企業・行政・御用学者はなにもしない。これらが強力な連合を組み、被害者に一歩も譲らないというやり方が定着した。


本州製紙江戸川工場事件 ・・・ 1958年に本州製紙江戸川工場でセミケミカルパルプの製造を開始。排水による汚染に漁民が抗議。同年6月20日に漁民が工場に乱入。漁労などの切り崩しが行われてうやむやに。
(1960年までは行政が住民側の判断をすることがあったが、それ以後の高度経済成長期には企業の側にまわり、なにをやってもおかまいなしになった。法や政令がないと規制できないという口実で数年の時間を稼げる。法は世論操作のために作られる。)


富山イタイイタイ病 ・・・ 三井金属鉱業株式会社神岡鉱山の排水被害は大正時代からあり、1945年ころからイタイイタイ病が報告されている。調査が始まったのは昭和30年代。カドミウムが原因であることは1965年ころにはっきりしたが、御用学者と県と調査委員会が潰す。1967年に公明党の議員が国会質問をして、マスコミに乗るようになり、1968年にカドミウムが主因であるという政府見解が出る。
イタイイタイ病の特長的なところは、地元で被害者による抵抗運動が起こらなかったこと。被害が大きくなると、賠償金支払いを求める集団訴訟が起こり、公害訴訟としては最初の勝訴になった(1971年)。神岡鉱山カドミウムが排出されない装置を作って操業を継続したが、2001年に閉山。その跡地にニュートリノ観測装置のカミオカンデが建設される。装置やノーベル賞の話題にイタイイタイ病がでてくることはまずない。)

 

 昭和40年代。日本の公害というと、水俣病イタイイタイ病、田子の裏のヘドロ(による汚染)、川崎と四日市の喘息だった。ほぼ連日、どれかの話題がテレビや新聞に載っていたと記憶する。

  

 

2019/10/03 宇井純「公害原論 II」(亜紀書房)-2 1971年に続く