タイトルは「天の魚」。サブタイトルは「続・苦海浄土」。 初出は1972年。
第一章 死都の雪 ・・・ 1971年から72年に代わる時間。水俣病患者たちは団体交渉に応じないチッソに抗議するために東京本社の前に座り込みを始める。
「大道に座りかつねむる、ということは、故郷の認識によれば非人(かんじん)になるということである。/「水俣の町の角には立てません。市民が憎みますけんな。」(P14)」
三界のいずこにも住まいを持たぬ身をこのように嘆じる。思いは水俣に、その前年になくなった細川博士に飛ぶ。作者の一人称が、誰でもない三人称の空の視点になり、患者や細川博士のことばに飛ぶ。ひとところに落ち着かぬものの見方ができる民衆のことば。薄っぺらなチッソの社長や弁護士のことば。
第二章 舟非人(ふねかんじん) ・・・ 水俣病によって漁場と舟と家族を失った老人の述懐。だれか特定の個人ではなく、さまざまな漁師の感情や考えが寄り集まってできたことば。過去の美しい仕事。それよりも、死んだ妻への愛慕と、魚を喰わせたことで「殺した」という意識をもつ悲しみ・悔悟。
「死んだもんより、死なせたもんの方が哀れぞなあ。(P58)」
第三章 鳩 ・・・ 1972年正月。東京チッソ本社での水俣病患者と社長などとの話し合い。社長、専務、弁護士らの無責任ぶり。社員の付和雷同、水俣病患者を差別する水俣市民(会社の関係者ばかり)。どこにもいられなくなった患者とその支援者がカンパを使って、東京にやってくる。
「故郷で女たちがひきずっているものを、この男たちもまた背負って来たのだった。病いの業苦も貧困も侮蔑も、永い年月も。故郷の魂と、その業苦をぜんぶ身の内に彼らは容れていた。(P155)」
その漁師たちの徳や倫理の高さ。保証金を値切り支払を渋る会社に水銀母液を飲め、重症者と軽症者を同じ人数だけ出せと迫る。苦痛や貧困に追いやったものらを同じ地平に入れ、彼らを共同体の成員として迎え入れようという寛容。
文章は東京入りから社長室占拠、団交と続くが、あるひとつのことばがきっかけになって水俣の記憶、労働の記憶が始まる。その融通無碍な文章。すさまじい緊張感と恍惚とする美しい記憶。
第四章 花非人(はなかんじん) ・・・ 東京チッソ本社に座り込みを続けるものたちを老婆の声で語る。胎児性水俣病の息子や娘(このころ高校生から成人)に漁師の暮らしを伝える。
第五章 潮の日録 ・・・ 1970年、患者の中からチッソと自主交渉しようとする家族が現れる。告発する会は即座に支援を決定。その際のやりかたは以下の通り。承認欲求を排した無名の人たちの集まり。
「運動の表での働きよりもより影の部分で、患者たちには一生知られることもない場所で働くことを好む人びとが多かった。このような運動ではいかにおのれを無にし、名前を無にして働くかが自分の志への唯一の踏み絵となる。(P255)」
患者と告発する会は水俣のチッソ工場前に座り込みを開始する。工場の拒否、市民の差別にあい孤立させられる。告発する会とその賛同者だけが座り込みの小屋に出入りする。工場は便所の使用を拒否し、地権者は水道を止める。歩くのも容易ではない患者にとっては車道を渡って駅の便所に行くことは大事業になる(なのでのちの社長交渉では便所の使用が議題になる)。水俣病をなかったことにしたい市民と市長は集会を開き、社長が出て3億9千万円の文化施設建設を約束する。患者には豚一頭分の金(年間10万円!)しかださない。集会後、社長が座り込み小屋にきて、患者は解決を迫る。会社側の人間の薄っぺらさが露骨に表れる会話の書き起こし。遅々として進まない交渉の間に、患者は次々と死亡する。
第六章 みやこに春はめぐれども ・・・ 1971年12月24日。チッソ本社の座り込み写真が報道されてからチッソの態度が硬化。著者を含めて三人しかいないこの日に社員や警官を使って強制排除された。その日の記録。もちろん出てくださいと言われても行く先などない。それこそ「非人(かんじん)」たるゆえん。水俣病患者はいくつものグループに分かれて、補償交渉を行っている。その中で最も厳しく企業の責任を問うのが、「自主交渉派」のこのグループ。別れたといっても絶縁したわけではないが、妙に気まずくなっている。彼ら患者への市民による差別は厳しい。
第七章 供護者たち ・・・ 本社からの排除のあと、患者や告発する会は路上にテントを張って抗議活動を続ける。水俣から来た30人ほどの患者、支援者。自宅に残る患者家族の世話のために、水俣と東京の支援者は奔走する。いくつかのシェルターを確保して患者が休めるようにする。つねに数十人から100人がいるので日々の食事は大変(そこでは若い女性が炊事を担当し、それが性差別ではないかという議論もある)。越年すると、裁判の判決が出て、患者側の勝訴。そのときには運動のペースを患者側がとるように進める。忙しい日々、若い人たちとの交流で感じる違和、ときどき思い出す水俣の海。
「被害者に寄り添う」とはさまざまな人権回復の運動で言われる言葉。でも、それを実践しようとするとき、「寄り添う」がいかに大変なことであるか、ときに自分のやりたいことを捨てることもありうるような覚悟が必要になる。すなわち、「被害者」を理想化して(この時代では被害者をレーニン「国家と革命」にでてくるような「革命家」であるかのように思い込む)、まったくそうではない田舎の人たちに幻滅する。彼らの打算的な欲望や実現が困難な要望に答え続けなければならない時もある。「被害者」とその家族のコミューンには入れても、同化はできない。日々のほぼすべてが運動のために費やされ、休暇・趣味などをあきらめ(どころか当時では風呂にはいることができないし、寝るのも会社の床の上で寝具がない)、日銭の多くをカンパすることもある。そのような苦労をしてもなお、感謝やねぎらいはほぼかけられず、翌日には新しいミッションがまっている。なにしろ自己主張をすることが「被害者」のコミューンを破壊することになるかもしれず、マイノリティの人権を損ない、彼らをさらに孤立させるようなことにもなりかねない。それにおよそ「闘争」とは無縁のこまごました生活の支援が運動の大半であるとすると、運動のイニシアティブや勝利を目標・目的として参加した者には幻滅しか与えない。運動にかかわるほどに<この私>は「被害者」ではないという意識がでてきて、いったいなぜやっているのか、意味はあるのかという問いにとらわれる。上のサマリーで引用した「無名」であることに耐え続けることが必要なのだ。という具合に「寄り添う」ことはきわめて難しい。そう簡単に口にできる言葉ではない。そのことを思い知らされるドキュメント。本書で著者はあまりそのことに踏み込まないが、最初は単に集落に行って、拒否され続けるという経験が書かれる。著者の「覚悟(とこんな安直な言葉でよいのか躊躇する)」の一端をうかがうことができる。とてもではないが分かるなどとはいうことができない。
この小説はチッソ本社のでたらめな対応が主題。本社内からの患者排除の際でも、工場での申し入れの際でも、従業員は患者や支援者を殴り蹴ってけがをおわせ、いっぽうで実傷のない事件で患者を刑事告訴する。患者の申し入れに社長は逃げ、口だけ達者な専務がうつろな言葉を吐く。およそ人権意識のない企業(それを支援する官庁と自治体)が患者をまったく救う気のないまま、問題の先送りと解決の引き延ばしを図る。
のらりくらりとした対応に、暴力と逮捕の不安、終わらない情宣活動に、患者の面倒と暮らしの世話。いささかも気を緩めるときのない日々に、著者は東京の風景を見、水俣の海と漁師の暮らしを思い出す。患者(特に高齢者)の意識が乗り移ったかのような熊本弁の流麗な言葉をつむぎだす。およそ類例のなさそうな文体で書かれた、過去にあったかもしれないが、現在と未来にはない「美しさ」。時にはほとんど口のきけない患者の内面にも踏み込む。近代の小説とは無縁で、孤絶した小説がここにある。
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