odd_hatchの読書ノート

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マイケル・サンデル「公共哲学」(ちくま学芸文庫)-2

2021/11/05 マイケル・サンデル「公共哲学」(ちくま学芸文庫)-1 2005年

 第2部は法律・政治における具体的な道徳を議論する。注目するのは、市場の道徳的な限界。市場が市民生活にかかわると市民道徳が堕落し、公共部門の品位を落とし、非市場の生活領域(行政、スポーツ、教育など)に市場原理が介入して従来の道徳を荒廃させる。機会(たとえばアファーマティブ・アクション)、名誉、報酬などの正当な配分でも道徳の荒廃が入り込んでいる。

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第2部 道徳と政治の議論
州営宝くじに反対する 1997 ・・・ ギャンブルの公営化はギャンブルに罪がないことを公認し、主に低所得者層をターゲットにして貧困を進め、自治体の歳入のギャンブル依存を増やす。民主的な生活を支える倫理、労働意識、道徳的責任と相いれないメッセージを送り、市民道徳を腐敗させる。なので反対。

教室でのコマーシャル 1997 ・・・ 公教育の財政難から企業の広告や提供教材を使うことが増え、授業その他で企業広告を見せられる。就学児童や生徒の購買が高まる。学校教育は欲望に反省を促し制御することで市民を育てることを目的にするが、広告は消費者を勧誘し、教育目的を損なう。

公共領域をブランド化する 1998 ・・・ 自治体でブランド商品を作ることではない。公共領域を企業CMに使わせパテント代を企業に払わせるとか、公的サービスで企業の商品を販売したりキャラクターを使ったりすること。公共領域を狭め、尊厳や権威が失われる。

スポーツと市民的アイデンティティ 1998 ・・・ プロスポーツは市民の帰属意識とファンの平等という民主的な公共生活の一部であるが、資本や企業の商業主義は壊そうとしている。ボックス席設置や本拠地移転で都市を脅迫し助成金を獲得するなど。

売り物にされる歴史 1997 ・・・ 有名人の私物のオークション。公共物が私物になる、私物が公共物になることの危機。歴史が公共財でなくなって、自由にアクセスできなくなる可能性。

優秀生の市場 1997 ・・・ 成績優秀生を対象にした奨学金制度の是非。学生の平等・公平を損なう可能性と、大学間の格差の拡大と教育内容の不均衡。公共サービス、公共財と市場原理のバランスのとり方。

われわれは汚染権を買うべきか 1997 ・・・ 大気汚染の権利の国家間売買。実行されると、富裕国が義務を回避する抜け道になる。大気汚染を商品取引にすると道徳的目的が失われる。グローバルな共同責任の感覚が失われる。市場では有効な功利主義が、汚染(公害)などの非市場案件では有効に働かないし、道徳と公正が失われる。

名誉と反感 1996 ・・・ 脳性まひのチアリーダーが身分を失う。理由はチアリーダーに求められる動きができない(ために他の技能を持つ生徒の美徳を損なっている)。チアリーダー(にかぎらず仕事や職など)の目的と名誉を再定義しなければならなくなった。一般的な反差別・被差別では脳性まひのチアリーダーの身分を失わせるアクションに対抗できない。もともとの選抜・選考は何らかの基準に基づく「差(を)別(けること)」であるから。ここの「差別」のニュアンスには蔑みや貶しなどの意味はないので、注意。

アファーマティブ・アクションを論じる 1997 ・・・ アファーマティブ・アクションでマイノリティを「優遇」する措置が取られたが、社会の差別が解消されようとしているとき、アクションを続けるべきか。「イエス」。民族・出身地・性別などの多様性をもたらすことは社会の共通善の実現を達成するので。個々人の経歴や努力は美徳や名誉とは無関係。

被害者の言い分を量刑に反映させるべきか 1997 ・・・ 裁判で被害者の証言を陳述させることについて。推進派は(被害者の)治療論と応報論で説明。どちらにも問題があると著者は指摘。
ヘイトクライムで被害者と加害者が裁判で応酬すると、加害者のヘイトスピーチで被害が拡大するから、それをみるとおれは賛成できないな。ヘイトクライムの司法的アプローチでも加害者と被害者が会うのは量刑が決まった後で、被害者を支援する体制ができている場においてのみのはず。)

クリントンとカント――嘘をつくことをめぐって 1998 ・・・ 巧みな言い逃れとうその違いについて。あるいは大統領は私生活のミスで弾劾されるべきか。

幇助自殺の権利はあるか 1998 ・・・ 裁判所で医師による自殺幇助めぐる裁判があった。あるとするのは人生は個人の所有物で尊厳と自立から認められるという考え。ないとするのは人生は授かりものであり守る義務があるという考え。カントは「自らが自由(自発的・自律的)な主体であれ、他者を手段のみならず目的として扱え」とするので、他者=自分の身体を手段としてはならないので、他人も自分も殺す権利はないとした。
(この議論をそのまま日本に当てはめるのは危険。自殺強要の文化があり、自殺者が賛美される社会では、法や裁判で認められると自殺は増えるだろう。一方、医療費を払えなくなった患者を強制退院させることは道徳的であるだろうか。)

胚の倫理学――幹細胞研究の道徳的論理 2004 ・・・ 胚の生物学・医学研究を禁止する根拠に胚の人権を認めるのは筋が悪い。そうすると、余分な胚を使ったり廃棄する治療にもかかわるとか、宗教の祭祀(胚の廃棄を人の死と同じに扱うかとか)おかしなことになる。
埴谷雄高「死霊」第7章では、生殖・出産しないで食われた子供、生まれなかった子供、捨てられた精子等が存在を弾劾した。埴谷の立場では胚にも人権を認めるかなり特殊な意見になる、といえるか。)

道徳的議論とリベラルな寛容――妊娠中絶と同性愛 1996 ・・・ アメリカでは宗教的理由により禁忌・犯罪となっているが、最近になって合法とする判例がでてきた。社会の変化の反映であるが、なぜ妊娠中絶と同性愛がよいかの議論で、主意主義にもとづく「自律と選択」を理由とするものがある。それだけでは風順とするのがサンデルの考え。すなわち、主意主義(自律と選択)では人間的善の考えがないし、個人の判断を許容する古都で生まれる敬意の質(マジョリティがマイノリティを受け入れるという傲慢)に問題があり、道徳的判断をかっこに入れて考慮しない。人間関係の豊かさ、自己表現、自己実現、多様性、相互支援などの人間的善の実現するからという素朴派の考えを採用するべき。くわえてプライバシー概念が20世紀中に「私的な事柄の公開を避ける(監視からの自由)」から「ある種の重要な決定を下す際の独立性(主意主義)」に変化したことを判例を用いて説明。
(この議論もそのまま日本にはあてはまらないような気がする。妊娠中絶や同性愛(いまはLGBTとするほうがよさそう)は近世まで許容されていた行為であるが、明治政府の西洋化で違法であるとされてきた。その一方で、この国では権力が違法としたものは国民・大衆が容易に受け入れろという素地があり、宗教右派神道がNGとする政治運動が21世紀に起きてかなり国民大衆に影響している。そこにおいて、主意主義のような強い個人主義の主張は宗教右派に対するカウンターとして有効な方法であるので。)

 

 詳細な解説は 小林正弥「サンデルの政治哲学」(平凡社新書) を読めばいい。重複すると思うが、気の付いたところを箇条書きで。
・公共やコミュニティなどの公共空間は、人間的善・共通善・正義・公正などを実現する場所であって、個人や企業の自律や選択には収まらない判断が行われるのであるが、公共やコミュニティより大きな企業やサービスが公共を侵食している。その功利主義は公共の人間的善・共通善を破壊する。
リベラリズム主意主義にもとづく自律と選択によるマイノリティの権利擁護は、道徳的判断をかっこにいれることがある。自律と選択を強調すると、共通善やコミュニティの自己統治を行わない理由にすることもある。
・教育、スポーツのような公共空間では、何らかの基準で人を切り分け、選別することがある。そこに個々人の努力や能力のような道徳的価値を持ち込むと、サービスやコミュニティの運営をおかしなことにする場合がある。目的や名誉などを再定義し公開することが必要。
・企業や財、サービスなどのグローバル化国民国家の権限の縮小は、道徳や倫理を国家やコミュニティ単位で考える従来の思想を変えてしまっている。人口の流動化とマイノリティの人権尊重は、従来の人間の区分を無効化している。自由、権利、道徳などの再定義が必要であり、そこでは人間的善・共通善という考えが重要。個人の決定権の尊重では説明できないことやあいまいになってしまうことがある。

 

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2021/11/02 マイケル・サンデル「公共哲学」(ちくま学芸文庫)-3 2005年