2024/11/05 フョードル・ドストエフスキー「悪霊 下」(新潮文庫)第2部7.8 ピョートルの秘密結社は全体主義運動の陰謀団になり、スタヴローギンは首領になるよう懇願される 1871年の続き
この章は第8章「イワン皇子」に続くものとして書かれた。しかし雑誌の編集長が掲載を拒否したので、単行本には含まれなかった。1921年に雑誌校正刷りに手を入れたものと1922年にドストエフスキー夫人アンナが筆写したものが発見された。異同があるが、この文庫では前者の校正刷り版をベースに、異同を示したものを付録として掲載している。ここでは、著者の構想通りに、第8章のあとに読む。
補章 チホンのもとにて(スタヴローギンの告白) ・・・ 翌日スタヴローギンはチホン僧正を尋ねる。
(途中、シュビグリーン工場の労働者たちがデモをしているのに遭遇。こちらの陰謀も進行中。)
スタヴローギン「心に決めたこと、ほとんど不可能と分かっていることを全力を尽くして踏み切ろうとしているよう」と幻覚をみていて、幽霊に取り憑かれていると嘆く。チホンは彼にまじめと嘲笑をみる。スタヴローギンは外国で印刷してきた紙を配布すると、チホンにみせる。これはスタヴローギンがマリヤと結婚していることを公表すると言ったことに対応。彼はこの紙約200枚をペテルブルクやこの町にまくという(推測するに、当時のスタヴローギンに一番近い所にいたのがレビャートキン。なのでこの犯罪を一人知っていたので、後日ゆすりを働いたピョートルは知っていたのかは不明。この紙が公表されるとスタヴローギンの評判は地に落ちるので、阻止するだろう)。
以下、スタヴローギンの告白文。186*年代にペテルブルクで淫蕩な生活をしていた。住んでいたのは町人夫婦との相部屋。夫婦には12歳の娘マトリョーシャがいた。いつも母に折檻を受けている。その日も折檻を受けてマトリョーシャが泣いているので、慰めているうちに興奮して凌辱した(そのとき、娘が「微笑は妙に歪んでいた」「完全な歓喜の情があらわれている」とあるのがとても不気味。児童虐待にあっているネルリ@虐げられた人々やネートチカのような極端に低い自己評価と他者依存のせいか)。そのあとマトリョーシャはスタヴローギンによりつかなかったが、いつも「神を殺してしまった」と嘆いている。久しぶりに顔を合わせたとき、マトリョーシャは逃げ出した。何が起こるかスタヴローギンは知っていたが放置した。数時間後、娘が首をつって死んでいるのが発見された。スタヴローギンに嫌疑はかからず、しばらくして引越した。そこでキリーロフ、シャートフ、レビャートキンを証人にしてびっこの女のマリヤと結婚した。淫蕩な生活が続いたが、スタヴローギンはマトリョーシャの亡霊を見るようになる。
(亀山郁夫「ドストエフスキー「悪霊」の衝撃」(光文社新書)によると、マトリョーシャがいう「「神を殺してしまった」はスタヴローギンを指すとのこと。この感想ではマトリョーシャが「神を殺した」解釈。)
(語り手の「私」は罰を受けたい欲求から生まれていて、人物にとりついた悪霊のなせるわざとみなす。しかしスタヴローギンは「正常な精神状態にある」と記録する。齟齬があるが、語り手はこの不道徳な犯罪の記録が検閲や規制にひっかからないように申し立てたものとみなしておけばよい。スタヴローギンが「正常な精神状態」「精神錯乱ではない」ことは作中なんども繰り返され、強調されてきたことであり、最後の一文でも念押しされる。この犯罪がラスコーリニコフ同様、熱には浮かされていたかもしれないが、正常な精神で起こん割れたことは重要。「地下室の手記」の語り手や「罪と罰」のスヴィドリガイロフもまた同様の犯罪を正常な精神状態で行ったのだ。)
(自分がかかわった人が自殺するのを止めなかった/止められなかった記録は、「おとなしい女」にもある。上のふたりの犯罪でも、男が女を軽視し「人間らしく」扱わなかったことが原因。)
(スタヴローギンの本心が書かれている。屈辱が快感になる。卑劣さにある時に陶酔する。臆病者であり卑劣管。ペテルブルクの生活が退屈で、ピストル自殺を考えていた。この告白を書いたのは、万人に顔をみられることを望むため。)
(スタヴローギンはマルメラードフの被虐とラスコーリニコフの過剰な自意識を持った複雑な人間なのがわかる。罪を自覚し、罰(ラスコーリニコフと同様に他人に見られること、笑われること、指弾されること)を望んでいる。それなのに仮面のような表情はこれらのすべてを隠す。その結果、ピョートルらから「会」、サークル、秘密結社の首魁になり、全体主義運動のリーダーになることを望まれる。神輿にされてしまうようなカリスマ性をもっている。罰せられたい欲望と他人を動かす快感を同時に持つというのがスタヴローギンのユニークなところ。)
チホンが読み終わると、スタヴローギンはキリストの磔刑像を割る。
チホン「スタヴローギンは自分の心理にうっとりしている。読むものを驚かせようとしている。」
スタヴローギン「誰かが赦せば心が軽くなる。できれば僧正に赦してもらいたい」
チホン「スタヴローギンの前には越えられないような深淵が口を開けている。(告白を読んだ)彼らの笑いを持ちこたえられない。」「スタヴローギンの犯罪は醜い、不名誉な犯罪、なので滑稽」
(ラスコーリニコフの犯罪は「醜い、不名誉な犯罪、なので滑稽」と指摘されていたかしら。たぶんされていない。)
スタヴローギン「自分で自分を赦したい。そのとき幽霊が消える」
チホン「あなたはすべてを信じている。神はスタヴローギンの不信を赦す。ある長老のところで5年でも7年でも修業しなさい」(突然驚愕して)「スタヴローギンは強烈な犯罪の近くに立っている。告白を発表する前に、告白の発表から逃れるために新たな犯罪を犯す」
(スタヴローギンが「改心」しないのは、チホンの提案が「修行しろ」と他人に下駄を預けたからだろう。「罪と罰」のソーニャは「わたしと一緒に神に赦しを請え」「私のような被差別者になれ」とわたしといっしょに修業しろだった。堕落している者についていって、その人が落ちそうになるのを体をはって阻止する、仮に阻止できなくともいつも一緒にいる、そういう決意と行動を見せる。イエスがやったことはソーニャと同じだった。「罪の女」や不治の患者らと一緒にいようとした。救おうとする集団を作り上げた。その違いがあって、チホンはスタヴローギンの堕落を改心させることができない。赦すことができない。)
(そう考えると、チホンは治療者・救済者なのではなく、予言者だ。彼はスタヴローギンが隠したがっていることを暴く。スタヴローギンが無意識に選択している行動の行く末をいいあてる。)
この章は当初の目論見通りの順番で読まないといけない。そうしないと、スタヴローギンの発表やレビャートキンのゆすりがわからない。第3部の終りで、スタヴローギンが選択した行動の意味がわからない。前の章でロシアを救うイワン皇子と目されるような大物が、いかに破廉恥であるかいかに無責任であるかがわからなくなる。
加えてここに書いたように、スタヴローギンの告白もチホンとの問答も、「罪と罰」で提起した問題のその後になっている。あるいは「罪と罰」では検討しなかった別の解を検討している。この二書は続けて読むべき。
亀山郁夫「謎とき『悪霊』」(新潮選書)で、「告白」を詳しく分析している。この章は3つの版があり、異同がある。ドスト氏(と清書した妻アンナ)はスタヴローギンの性格付けを変え(検閲対策が主な理由らしい)、そのために前後の章と合わないところが出てきたとのこと。
論点は多々あり、自分には要約できないので、メモを箇条書きに。
・スタヴローギンが感じる罪には過剰な自慰がある
・マトリョーシャは被虐趣味の持主。スタヴローギンもそう。マトリョーシャはスタヴローギンの秘密をかぎ取って誘惑した。しかし、のちにスタヴローギンが小間使いのニーナ・サヴェリエヴナと二人で部屋にこもったのを見て、スタヴローギンの裏切り(と三角関係での敗北の自覚)を知った。それが縊死の理由。
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2024/11/01 フョードル・ドストエフスキー「悪霊 下」(新潮文庫)第2部9.10 舞台劇のようなシチュエーションコメディ 1871年