2025/05/13 苫野一徳「『自由』はいかに可能か 社会構想のための哲学」( NHKブックス)-1 ヘーゲルの社会原理論を援用して「自由」を説明。自由は我欲する(欲望)と我なしうる(能力)が一致していると感じられること。 2014年の続き
ここまでに以下の「自由」の原理があることが分かった。そこで具体的に自由の条件を検討する。それは実存的条件と社会的条件にわけられる。
①「欲望・関心相関性」の原理
②「人間的欲望の本質は『自由』である」という原理
③各人の「自由」の根本条件としての、「自由の相互承認」という社会原理

第2部 「自由」の条件
どうすれば「自由」を感じられるか ・・・ 自由は我欲する(欲望)と我なしうる(能力)が一致していると感じられることにある。キーワードは欲望と能力と感度。でも、欲望と能力はしばしば一致しないし、欲望そのものがわからないことがある。このような状態を不幸という(不幸というと貧乏とか失恋とか失業とかと思いそうだが、それは状態であって、自由の欠如を指していない)。そのような不幸から脱して自由を感じられるようになるには、欲望の中心点がなにかを社会の欲望の網目にフックをかけて見いだせ、その意味や喜びを考えろ(思春期にある不安や喪失感は欲望が何かを見出していないことにあるのだろう。仕事や労働で金をもらうようになると、欲望の中心点は次第にはっきりしてくる)。見出したら、欲望の肥大化をコントロールできるようにしろ、能力を高めろ、欲望と能力が一致しないことに悩んだら欲望を変えてみろ。そのような自己コントロール力は思考によって持てるようになる。(おせっかいをいえば、自由と不幸をジャッジできる感度をあげるために、体験や経験を積め。)
(このような自由の考えはアーレントの活動(「人間の条件」)に似ているなあ。ほかのところも、通俗的な処世訓や人生訓をそれほど違っているわけではない。これまで数千億人の人間が考えてきた知の集積だから、これまでどこにもなかった新しい視座などあるはずがない。でも通俗書と異なるのは、西洋の哲学者を縦横無尽に引用しているから、ではなく、検証可能で反証可能な前提から出発して思考しているから。)
(自由の問題を考えるとき、中高の暴走族生徒をどうやって説得するかと思考実験するのだが、本書のアプローチをとれば、説教や暴行によらず、対話と議論ができそうな感じがした。まあ、俺は他人に信頼される人柄ではないので、実験できないだろうが。)
どうすれば「自由」な社会を作れるか ・・・ 個人が自由の実現できたとしても、他人の自由が承認されていなければならない。自由は他者あっての自由だから。その制度を作るのに大事なのは国家。国家には、法・教育・福祉で「自由の相互承認」が実現できる条件を実現させなければならない(理念的な国家は「自由の相互承認」を構成員に与える義務を持っているので)。しかし国家のみでは不十分なのであって、これまでには「自由の相互承認」を実現する圏域として国家のほかに、家族・市民社会がある。しかしグローバル化する資本主義では、資本が国家の領域を超えて格差と抑圧を生むので、この3つの圏域だけでは不十分。別の圏域や脱資本主義も検討されるようになった。
(以下、マルクス、デューイ、ハーバーマス、アーレント、ネグリ、柄谷行人らの構想が検討される。俺からすると、本書のように検討するより実例をやってくれ。そこには問題解決のアイデアがあるよね、という感想がある。上の人のうち、柄谷行人は2000年にNAM:New Associationist Movementを行った。でも2年でつぶれた。終わってから知ったので詳細不明だけど、残された資料の断片を見ると、思想論争と内部分裂で運動にならなかった模様。理念先行の運動はしゃべりたがる人達が思想の先鋭化をするし、具体的に何かを作ることをしない。そうみると現実の課題解決を含まないと、新しい社会圏構想はうまくいかないんじゃないかなあ。)
(細見和之「フランクフルト学派」(中公新書)によると、アクセル・ホネット「承認をめぐる闘争」で「自由の相互承認」を検討している。それによると、社会的な承認関係は、親密な関係における「愛」(すなわち家庭)、市民社会における「法(権利)」、さらに社会的な「連帯」の三つの構造で説明しているとのこと。(ヘーゲルは国家による承認を持ち出したが、国家の構成員ではナショナリズムに絡めとられるので、社会や公共圏の構成員であることをホネットは構想する)。またこの「承認」は富の分配・再分配だけでは解決しない。すなわちロールズの正義論では不十分。自分の感想を付け加えると、移民や外国人の市民権は社会的な「連帯」の視点で、名誉や尊厳を相互承認することが重要。)
吉永剛志「NAM総括——運動の未来のために」航思社
(また俺は個人的な行動性向があるので集団に所属するのは困難なので、その実験に参加するのはやはり困難だよなあという感想になる。)
自分が自由であるためには、他人の自由を承認しなければならない。ときに他人の自由が〈この私〉の自由とぶつかってしまうことがある。そのとき、〈この私〉は他人を暴力的に排除するわけにはいかないので(相互承認にひっかかる)、話し合いをしたり第三者による判定を受け入れたり、時に自分の自由が制限されることを受け入れたりもする。自由である社会は、安定した秩序だった社会ではない。しょっちゅういろいろなところで問題が起こり、自分の身に降りかかり、しっかり考えて、他人の意見を聞き、自分の意見を主張したりしなければならないのだ。ときにそれはしんどいし、面倒くさい。
こういう面倒くさい自由を面倒くさいと思う人は「強い指導者」の命令通りに動けばいいと思うようになる。それが衆になると、ファシズムになる。自己肯定感が低くて社会から冷遇されていると思い込んでいる人から全体主義が生まれるというのはアーレントが「全体主義の起源」で説明した通り。
自由であろうとすることや自由であり続けるのはしんどい。でもそのしんどさをどうにかしないと自由はすぐに簡単になくなってしまう。自由を実行するしんどさ、他者の複数性を受け入れることの面倒くささ。それでもなお、自由は人間の本質なので、実現しないといけない。本書にはこのしんどさ、面倒くささは書かれていないので、ちょっと補足してみた。
苫野一徳「『自由』はいかに可能か 社会構想のための哲学」( NHKブックス)→ https://amzn.to/41RdG6D