「自由」概念は多義的であり定義しがたいものとされているので、人間の重要な問題であるとは考えにくくなってきた。
誰もが自由に生きているはずの時代にあって、私たちはなかなかその実感を持つことができない。自由など本当は存在しないのか?自由より優先されるべき価値があるのか?哲学と現代思想が考えてきた「自由とは何か」という問いには、ヘーゲルの思考を手がかりにすれば答えを出すことができる。新進気鋭の哲学者が、「欲望」に着目することで「自由」を人間にとって最も根本的な価値と捉えなおし、私たちが「生きたいように生きられる」ための条件を考える。
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784140912188

序章 「自由」に代わるもの ・・・ 自由は概念が多義的だし、実行しようとするのは困難。自由であること、無規定性であることは苦しみにもなる。自由を放棄するとき、1.奴隷化(孤立化の不安や空虚さに耐えられず支配を望む)、2.動物化(欲望に喜びを見出して満足し、高邁な理想の実現や人格修養を忌避する)、3.新たな大義(他者や正義など)を設定してその実現を目指す。筆者は動物化も他者も正義も自由の最重要条件であるとする。
(自由に先立つ理念として他者や正義が優先する傾向があるという指摘に同意。自分の考えでは他者も正義も個人を抑圧して全体主義社会にする手段になるから。列島でいえば「天皇」「英霊」という他者を優先しようということだし。正義も功利主義になって「最大多数の最大幸福」のためにマイノリティ抑圧に利用される。)(レヴィナス「時間と他者」を再読しようとして挫折したのはこのあたりの気づきがあったせいかなあ。)
第1部 「自由」の本質
「本質」とは何か ・・・ 現代思想は反本質主義で、本質・真理・絶対を批判してきた。でもそれは過度な相対主義の「自由」はいくつもある・何でもありを正当化するわけではない。「自由」概念には共通性があると確信している。それは欲望・身体・関心を共有しているから。
(これはアリストテレスやサンデルらの共通善に似ている。自由は多義的で操作可能であるけど、ある程度の共通了解があるのだ。)(昭和時代のこの国のドストエフスキー評論が自由を論じていて、ほぼ無意味なのは自由を定義しようとして、そこから自由の本質を説明しようとしているから。)
河出文芸読本「ドストエーフスキイ」(河出書房)-1
「自由」のイメージを解体する ・・・ 自由にまとわるイメージがいかにニセ問題であるかを検討。
・因果(神、宇宙、遺伝子、社会システム)からの自由: これらは仮説性、懐疑可能性が高いので志向の出発点にならない。見えてしまっている」「思ってしまっている」という「確信」「信憑」というフッサールの「超越論的主観性」が思考の出発点である。そうすると、
どのような時にわたしたちは「自由」を実感できるのか、どのような確信条件においてそれを「自由」と呼んでいるのかと問うべきなのだ。
・恣意、解放からの自由; これらは〈この私〉の意思で統一しなければならないが、必ず他者が制約を課してくるので、ありえない。抑圧からの解放はテロ、暴力、「破壊の狂暴(ヘーゲル)」の解放になる。
・バーリンの「消極的自由」、リバタリアニズムの強制からの自由批判。いずれも「解放からの自由」であって、恣意的な理論なので。あと思考実験から自由を考えると、仮説性・懐疑可能性が高くなるのでよくないとのこと。
(ドストエフスキーを読んでいるときに自由は具体的な活動の中で現れてくるもので、そこから見えてくることの集積が自由なのだと考えていたけど、それに近しい議論だと読んだ。本書でも「自由を感じるとき、必ずなんらかの現実性がある」と述べている。)
「自由」とは何か ・・・ ヘーゲルの社会原理論を援用して「自由」を説明する。人間は欲望を持っていてそこに自由が生まれる。複数の欲望によって規定性がある(なりたい/なりたくないのせめぎあい)のになお規定されていないことを感じる(目標を達成しようとするプロセスとか憧れの実現など)。自由は状態ではなく、欲望に規定されていることを自覚して規定されていないと感じる感度にある。自由の欲望は承認欲望(他人から危害を受けないとか、存在を容認されるとかを感じる)。でも他者の複数性において自分の承認欲望だけを要求すると「解放からの自由」になって暴力を誘発するので、承認欲望は相互的でなければならない。この自由の承認欲望と自由の相互承認が自由の性質。
(著者は自由が人間の本質であって正義や公正は代替できないという。それを納得してなお思うのは、生命-自由-正義-公正はそれぞれが相互承認しあう関係にあって、ばらばらに切り離せず、相互に依存しあっている概念なんじゃないのかなあと妄想。自由を考えると、必然的に生命、正義、公正をかんがえることになるのでね。)
(ここでの気づきは、自由は「状態」ではないということ。状態を規定したとたんに、例外が生まれて規定は無効になるのと、だれかが「自由な状態」を規定すると、「解放からの自由」の罠に取り込まれて「破壊の狂暴」が発生する。)
現代政治哲学の難点 ・・・ ロールズ、サンデル、ローティらのアプローチを批判する。検証不可能な前提を使っているとか、定義があいまいで独善的な前提(「共同体」)をとっているとか、相対主義的アイロニーにあるとか。著者が言うには「自由の相互承認」という検証可能な原理をとっていないため。詳しくは下記。
①「欲望・関心相関性」の原理
②「人間的欲望の本質は『自由』である」という原理
③各人の「自由」の根本条件としての、「自由の相互承認」という社会原理
でも、ロールズやサンデルやローティが積み重ねた議論は「自由の相互承認」を実践する際の「実践理論」として利用できる(例。ロールズの格差原理など)。
(「自由の相互承認」という社会原理という論理構造には文句のつけようがないのだが、各人は同質・同一条件にあるのではなく、さまざまな場面で権力の持ち方が異なる。なので「相互」の関係が結べない場合がある。俺からすると、「自由の相互承認」の原理と実践理論には権力論が必要と思う。後半で触れるのかもしれないが。)
2020/10/26 藤田弘夫/西原和久編「権力から読みとく現代人の社会学・入門(増補版)」(有斐閣アルマ)-1 2000年
2020/10/23 藤田弘夫/西原和久編「権力から読みとく現代人の社会学・入門(増補版)」(有斐閣アルマ)-2 2000年
後半でも権力論は現れなかった。人は生まれながらにして平等であるという理念はあっても、現実ではそうではない。権力や経済、資産、出自などの違いで、社会に存在する人間は対等ではない。対等でないものにはなかなか「自由の相互承認」ができない。なので、権力を対等にする運動・活動が必要になる。ここがふれられないのは不満。
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2025/05/12 苫野一徳「『自由』はいかに可能か 社会構想のための哲学」( NHKブックス)-2 「自由の相互承認」を実現する国家・社会・家族。新たな圏域を構想しよう。 2014年に続く