歴史とは何かにこたえるのは難しいが、歴史ではないのは何かということには20世紀になって社会問題になった歴史修正主義(revisioism)や否定論(denial)で説明できる。日本でも「大東亜戦争肯定論」を端緒にする歴史修正主義は「南京事件捏造」「従軍慰安婦捏造」などが21世紀に流行しているが、本書は西洋の歴史の研究者が書いたので、日本の事例は出てこない。

歴史の記述を「私が感じた歴史」に変えて、ホロコーストやジェノサイドや戦争犯罪などがなかったことにし、人種や民族の差別を扇動する歴史修正主義の始まりは19世紀末のドレフィス事件に見ることができる(ここでもユダヤ陰謀論と反ユダヤ主義が主張の中身だった)。WW2のあとに、ニュルンベルグ裁判の「再評価」でナチス無罪論(戦争の発端はほかの国や民族)が出て、ネオナチの台頭を招いた。1970年代から新しい潮流としてナチスによる「ホロコースト」否定論がでてきた。この主張とその反論は名誉棄損の裁判になり、司法が歴史を裁くことになった。結果は歴史修正主義者・否定論者の敗訴で、多額な裁判費用を負担することになった。もともとドイツには1960年代にできた民衆扇動罪によってネオナチの活動は違法になっているが、1990年代にはホロコースト否定論も違法になった。ほかにフランス、オーストリア、東欧、バルト三国でも否定論は違法になり、著名な否定論者は逮捕され収監されている。
学問としての歴史は専門性と長年の訓練が必要であり、専門家同士の批判が行われている。実証主義と史料批判が必須であり、実際になにがあったかを全体として把握するよう努める(任意の切り取りは許されない)。しかし歴史修正主義は、事実に不誠実であり、自説に都合がいいように史料や事実を切り取り、意図的に歪曲し、根拠を欠く主張を、学問の外で披露する。否定論者の文献を引用しあって、歴史学の装いをこらす。よく使う言葉には「真実」「客観性」「使命」「国家」「民族」など。そこには政治的意図の隠ぺいや現在の政治体制の正当化を行って歴史を政治利用する。人種や民族差別を含んでいる。たいていは自国のホロコースト、戦争犯罪がなかったことにして全体主義運動に利用する。
(ここ大事。)
「ホロコースト否定論者は月がチーズでできていると確信しているから、主張するのではない。月がチーズでできている「可能性」を繰り返すことで、人々の認識の揺らぎを呼び起こすことを意図している」
歴史修正主義は全体としての主張は誤っているが、その証明を学問的に行うのはとてつもない負担になる。そのために無視して放置すればいずれ無くなると思われてきた。しかしホロコーストや戦争犯罪の経験者がいなくなると、歴史修正主義に影響された人が多くなり、それが正しいと思うような人が増えてくる。すると、政策に影響を与え、周辺国との対立が激しくなり、社会の不安が増してくる。それに西洋ではホロコーストは新しい証明をしなくても覆しようのない事実であると思われているので、自国内の歴史修正主義を放置することは国際政治に悪影響になる。そこでヨーロッパの多くの国では否定論を違法とした(そこにヘイトスピーチ禁止法、人種差別禁止法もあって、否定論者やネオナチの活動には制限がかけられている)。
(ただ、ヨーロッパの「否定論」禁止法は自国のホロコーストに限定される傾向があり、周辺国のジェノサイドまで及ばないことがある。またロシアはドイツのホロコースト否定論は禁止するが、共産党の「収容所列島」否定は処罰しない。共産党のジェノサイド否定を禁止するウクライナを侵攻する理由のひとつになっている。当然、日本軍や中国共産党など極東のホロコーストやジェノサイドの否定も禁止しない。でも「平和の少女像」撤去には市民が反対して、継続して設置されている。)
法による処罰には限界があり、また政権が法を濫用する可能性があるので運用は慎重になりやすい。なので民衆や市民によって否定論者と政府を常時監視し、提言する民主主義が必要不可欠だ。それを欠くと、否定論禁止法が市民の自由を奪うことになる。
日本の場合は書かれていない。大きな違いは、法規制がないどころか、内閣と行政が歴史修正主義を進めている。南京で行われたジェノサイド「南京事件」はあったことを認めているが被害を小さくしようとしている。戦時中の韓国その他の国で行った「従軍慰安婦」「徴用工」は存在を否定する外交政策を行っている。各地に設置されている「平和の少女像(慰安婦像と呼称されることが多い)」を撤去するように地元の大使館や外務省が交渉している。関東大震災で起きた朝鮮人虐殺を慰霊する式典にずっと都知事が慰霊文を出していたのを、小池百合子になってから取りやめている。慰霊祭の横で「虐殺はなかった」という民間団体の集会にとの職員を派遣している。国内にあるジェノサイドや虐殺の慰霊碑を撤去する運動が起こり、自治体はそれに乗ってきている。自民党はもともと憲法改正を党の使命にしているので歴史修正主義と親和的であり、過去数十年は同じ思想を持つカルト宗教の支援を受けている。そのために21世紀になってから、歴史修正主義が政策に取り込まれるようになった。歴史修正主義は人種差別・民族差別を伴っているので、彼らの行動はヘイトスピーチを含んでいる。これらは、当事者とその係累の尊厳を既存し、社会の分断を促す。なのでヘイトスピーチを同様に、歴史修正主義も規制され、処罰されなければならない。市民が政治を監視する運動が必要だ。
なお、revisioismを「歴史修正主義」と訳すと、彼らの主張には正しいものが含まれているという誤解が生じる。revisioismは議論してはいけない説得や理解も不要だ。その主張には上から目線で叱る・バカにする、周囲の人への啓もうを意識して正しい知識をせつめいするべき。啓蒙のためには、歴史修正主義ではなく歴史捏造とするのがよい。このことを指摘されて、自分は「歴史捏造」を使っている。
2021年刊行。
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