2025/07/16 フリードリヒ・ニーチェ「この人を見よ」(岩波文庫)-1 遅れてきた強国ドイツの病理を分析。哲学と心理学と詩と文学は同じ意義をもっている。 1888年の続き
ではニーチェはどういう処方箋を書いたのか。

近代的人間はルサンチマンと誤った道徳で堕落するしかない。近代に生きていては必然的に自分と他人の生には意味がないと考え、うらみつらみをいうか宿命論を受け入れてあきらめるモッブやダス・マンになるしかない。それではだめだ。ドイツにはキリスト教道徳しかないので、啓蒙主義でもうまくいかない。となると、人間はツァラトゥストラになるしかない。あるいは彼の教えを受けてツァラトゥストラを目指すしかない。ツァラトゥストラとは近代人が達しうるより一段高い段階にいる人間のことだ。彼はキリスト教道徳の善悪や道徳では量ることができない、それの乗り越えた彼岸に立っている。近代人がツァラトゥストラになるには、力が必要だ。力とは体力や暴力ではない。キリスト教道徳では神が道徳を獲得する力を流出してくるので人間はそれを受け入れていればよいが、なにしろそれまで依存していた神は死んだ。神なしでキリスト教道徳を克服し新しい道徳を構築するには力がいる。ニーチェはたぶん「原罪」という概念が嫌い。罪と罰のことばかり考えているから、人は委縮しルサンチマンをもつのだ。ツァラトゥストラのような「超人」は能産的自然の生成する力を持たねばならない。他人や神や観念に依存することなく、個々が単独で生きねばならない。生成そのものである力をもち、生の愉悦を味わい、楽しみ、踊り、愛そう。
(「超人」というと20世紀のサブカルチャーのおかげでアメコミの「スーパーマン」や円谷特撮の「ウルトラマン」やマンガ「キン肉マン」の数々のレスラーを思い浮かべてしまうだが、ニーチェの「超人」は超能力の持ち主ではない。空を飛ぶとか光線を発射するとかの能力をもつものではない。そうではなく、キリスト教道徳と神の掟を踏み越えた新しい道徳をもって行動する人なのだ。でも、ニーチェはどのような道徳であるのかは記述しない。せいぜいギリシャ悲劇時代やローマ最盛期の「市民」であることがほのめかされるくらい。)
(「踊る」ことが出てくるのは、踊りは人間の大事な営みだから。西洋の踊り・ダンスは下半身を使って飛んだり跳ねたり蹴ったりすること。上半身の身振りは重要ではない。地上に押し付ける重力に逆らって身体を飛翔させようとするのが踊り。そうすると、天使はすでに重力の桎梏から逃れて飛翔できるので、踊ることはできない。「超人」は超能力を持つことでも天使になることでもないので、踊るという人間の営みをすることが大事なのだ。古典派からロマン派の交響曲にメヌエットやスケルツォの踊りの音楽(ダンス・ミュージック)が含まれることはとても大事。交響曲は人間の一生と営みを象徴する音楽だから。)
そうして「道徳的世界秩序」を作るのだ。この道徳は反キリスト教であり、異教徒にも通用するのである(ツァラトゥストラはペルシャ人であることに注意)。この秩序は反ドイツでありナショナリズムに絡めとられないのは当然として、インターナショナルかというとそうではなく、コスモポリタニズムともいえない。いったいニーチェは秘教的に考えるのだが、結社や団体を作ることには興味はない(あれば正義や倫理を語るだろうし)。神の掟を乗り越えた「超人」がぽつぽつと生まれていくうちに、その強いリーダーシップによって自生的に人々は変わるとでも考えているのだろうか。
(こういう「超人」イメージに近いのは、ベートーヴェンの英雄交響曲かしら。リンクの解釈を参照。)
笠原潔「西洋音楽の諸問題」(放送大学教材)
もうすこし「超人」になるためのプログラムを考えてくれれば、ニーチェ運動みたいなのが生まれそうなものを。「超人」になろうとする人がすべて踏み越えや乗り越えを達成するわけではない。おそらく挫折する人が続出する。それこそ「生命そのものの力」に乏しい人たちはそうなる。では「超人」になる闘争から脱落した人たちはどうなるか。「超人」への憧憬は残るので、「超人」になった人、「超人」になったと自称する人たちに熱狂するだろう。個人崇拝とフェティシズムの始まり。そうすると、「超人」思想は全体主義運動やファシズムへの道を開きそう。その危険な隘路を避けるには、国家論や共同体論、運動論や組織論、正義論などが必要になる。
まあ、ニーチェは組織論や運動論には興味はなさそうで、まずはドイツと近代と哲学をタタくことに熱中している。そこは彼の考えの弱いところで、ナチスのような全体主義運動が簒奪するか(そういえばナチスはニーチェが嫌ったワーグナーも簒奪したな)、おしゃべりで他人と同調しないオタクを産むかになってしまった。
また彼の言う「生」がどうにも抽象的。人間は抽象的に生きることはできない。思索と対話だけしているわけではない(それが可能なのはギリシャ悲劇を上演していたアテナイの市民(男性のみ)だけ。ニーチェはその世界を理想にするのかもしれないが、近代以降の人々は労働し仕事をし家事をし政治参加をする。そのような生において「超人」であるとはどういうことか、「道徳的世界秩序」はどのように構想されるのか。ニーチェは婦人解放運動やフェミニズムを罵倒する。ニーチェの考える生の愉悦は男性だけに許されるものらしい。それは21世紀的ではない。
最後にタイトル「この人を見よ」について。俺が思ったのは、ニーチェが嫌いなソクラテスが珍重したデルポイの神託「汝自身を知れ」を反対にしたのがタイトルの意味なのだということ。デルポイの神託は他人や神の命令を聞けという受動的な道徳規範。それに対しニーチェの「この人を見よ」と人間の生成そのものに規範を取れと命じるのだ。タイトルはEcce homo, Wie man wird, was man istで、「homo」をこの人=ニーチェと見るだろうが、俺は「人間」(ただしこの「人間」概念は難しい。近代の人権思想に基づく人間を意味していないように思うので)を見ろと読んだ。タイトルの後半は訳出されることはないが、機械翻訳だと「ありのままの自分になる方法」。なのでhomoを人間とみたほうがサブタイトルにはふさわしそう。ニーチェは「自由」という言葉を使わないが、政治哲学から見ると、ニーチェのほうが自由の概念に近いだろう。
(ここは誤りの模様。「この人を見よ」はヨハネによる福音書19・5でピラトがイエスを指して言った言葉。ピラトはイエスが無実と信じて、イエスを滑稽な「ユダヤ人の王」に仕立てた。ユダヤ人は笑わずイエスの死刑を求めた。ニーチェのタイトルをピラトの側で読んでも、ユダヤ人の側で読んでも、どちらも意地が悪い。)
本書の最後で自分のことを「十字架の人に対するディオニソス」と呼ぶ。十字架の人は笑わない、楽しまない。でもディオニソスは笑い楽しみ踊り性愛する。生成そのものである生とはディオニソスになることでもある(といって刹那主義ではないよ。しっかり考え行動しないといけないのだよ。そのヒントはここまでに書いたつもり)。
今回の約40年ぶりの再読で思ったのは、秘教的に書くニーチェを予備知識なしで読むのはとても危険。とくに10代の孤独な読書のとき。謎めいて魅力的な文体に酔っぱらって、彼の真似をして皮相な相対主義や全体主義にからめとられたりするから。このノートにメモしたくらいの近代ドイツ史、近代哲学史、古代ギリシャ思想と演劇、キリスト教などについて知っておいたほうがよい。ニーチェの秘教的な語彙もそのままではわからないから(とくに「道徳」「人間」「デカダンス」)、政治哲学などで一般的な語の意味を知っておいたほうがよい。
ニーチェ対ワーグナーの対決にも関与しないといけないから、西洋音楽の歴史と近代美学も押さえといたほうがよい。ニーチェはバロック以降の西洋音楽の歴史は誤謬の歴史と言っているくらい(ごめん出典を見つけられなかった)だから、かなり詳しくないといけない。
そうすると事前勉強で100冊を超えそうだな。頑張れ、若造。
もうひとつニーチェが危険なのは、彼の文体にある強烈な自意識と自尊心(その裏側にある劣等感の肯定)。他者嫌悪と罵倒。女性や弱者への差別。これを身に着けたり真似したりすると、他者を攻撃してうっ憤を晴らし、孤立することを正当化してしまう。ニヒリズムを肯定して、ニーチェが嫌うルサンチマンの持ち主になり、ニーチェが嫌うモッブやダス・マンになってしまう。みずからを「超人」と思い込むと、他者危害を正当化してしまう。その先にあるのはネトウヨ化と全体主義運動やファシズムへの翼賛。
これを回避するには、正義や公正を考えることが必要。政治哲学の基本的な知識をもつべき。でもニーチェから政治哲学に行く道はないんだよなあ。解説本できちんと指摘・指導していればいいんだけど。
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